北朝鮮の姜錫柱(カン・ソクジュ)第一外務次官の名が再びマスコミの登場している。一九九二年十一月民主党のビル・クリントンが現職のジョージ・ブッシュを大統領選で破って、翌年の一月二十日に就任したが、直面したのは北朝鮮の核兵器開発を阻止することであった。北朝鮮はNPT(核拡散防止条約)から脱退を宣言している。冷戦終結後、初の核拡散危機を迎える中でクリントン政権は誕生した。
一九九三年六月十二日のNPT脱退期限を前にして米朝直接対話の相手として登場したのが姜錫柱、米側の交渉責任者はブルックリン生まれの外交官ロバート・ガルーチ。政治・軍事問題担当国務次官補だったが、核問題の専門家でもある。
姜錫柱は平壌の国際関係大学出身。兄は労働党歴史研究所の所長である。パリの北朝鮮代表部、欧州問題担当の外務次官を歴任している。六月二日からニューヨークの米国連代表部でガルーチ・姜錫柱の初会談が開かれている。
米側の姜錫柱に対する初印象は悪くない。公式会談の前に実務レベルなどの非公式折衝があったが、姜錫柱が「風とともに去りぬ」が愛読書だと言って、それが嘘でない証拠に本の一節を英語で語ってみせている。
しかし公式協議が始まると姜錫柱がタフな交渉相手であることを思い知らされる。姜錫柱はNPT復帰を頑強に拒否し、交渉の見通しはまったく立たなくなる。再び非公式折衝が平行して行われ、脱退発効期限の前日に長時間協議の末に六項目の合意が共同声明の形で発表された。
米国による安全保障上の確約、公式対話を継続する約束、北朝鮮が必要と認めるかぎりNPT脱退の権利を留保する内容となった。今日からみると、いずれも曖昧さを残す合意なのだが、クリントン政権にとって初の外交課題をクリアできたものとして歓迎されている。
北朝鮮という鎖国国家の頑な外交官に手を焼いていた米国にとってある程度、西側的な合理的思考が通用する姜錫柱という交渉相手ができたことは、一つの収穫だったといえる。問題は姜錫柱が北朝鮮の権力構造で、どの位置にあるかという見定めであった。
七月十四日からジュネーブでガルーチ・姜錫柱の第二ラウンド協議が開かれている。姜錫柱は国内で生産される天然ウランを利用して平和的な原子力計画を持っている。しかし国際社会が軍事転用を懸念するのであれば、小さい軽水炉計画に転換する用意があると突然述べた。ガルーチはこの提案に戸惑っている。軽水炉は一基当たり十億ドルはかかる。北朝鮮に十億ドルの経済支援をすることに世論はどう反応するのか?
一九九三年から一九九四年初頭にかけて米朝協議は停滞している。北朝鮮も深刻な経済危機に見舞われ、電力事情もひっ迫していた。金日成は米国による軍事的脅威を公然と唱えて国内の引き締めに乗り出している。平壌を訪れた旅行者たちは、空港周辺に対空ミサイルが配備され、首都周辺で兵士が塹壕を掘る姿を目撃している。
騒然たる情勢の中で北朝鮮は寧辺(ヨンピョン)の五メガワット原子炉から核燃料棒を取り出した。寧辺原子炉は北朝鮮による独自設計の実験炉。この核燃料棒を化学処理して原爆用のプルトニュームを抽出することができる。
CIAは衛星写真から寧辺原子炉の運転停止を掴み、TNT換算で10キロトン爆弾を一、二発つくれるプルトニュームを北朝鮮が手にしたと分析している。これに対して北朝鮮は損傷した核燃料棒を交換したに過ぎないと反論した。
米国防総省は朝鮮半島で戦争が勃発すれば、最初の三ヶ月で米軍の死傷者五万二千、韓国軍の死傷者四十九万、財政支出は六百十億ドルにのぼるという報告書をクリントンに提出している。五月二十日、クリントンは外交担当の高官を招集して、事態を外交努力によって解決する姿勢をみせた。
といっても単純な対話路線ではない。ジュネーブの米朝協議再開を呼びかける一方で進展がない場合には国連安保理の場で北朝鮮制裁を求める決定もしている。今日でいう「対話と圧力」の路線をとったといえよう。しかも北朝鮮が軍事侵攻するケースに対する予防措置もとった。国防総省は奇襲攻撃に対処するための部隊増派計画に着手している。
この事態に危機感を抱いたのはジミー・カーター元大統領であった。カーター訪朝は、すでに多くが明らかにされているが、対話と圧力によって金日成の妥協を引き出そうとするクリントンにとって必ずしも好ましいものではなかった。カーターに対して冷淡だったといえる。
そのことはカーター・金日成会談で危機を回避した時のクリントンの態度で明らかになっている。クリントン周辺からは「出過ぎた真似」「クリントンをコケにする振る舞い」「裏切りに近い」という声すらあがった。帰国したカーターにクリントンは会うこともしなかった。
それはともかく金日成はカーターが要求した核凍結を受け入れる決定を下している。注目すべきはトップ会談の席上に姜錫柱が終始侍っていて、金日成の質問に答え、カーターが提案した核凍結についても詳しく説明したいたことである。カーターは姜錫柱が金日成側近のナンバー・ワンだと感じている。
軍事部門の責任者だった金正日はカーターとの面会を断った。この日、カーターは姜錫柱とも個別に会って、カーター・金日成会談の詳細内容の確認を行っている。もはや姜錫柱こそが北朝鮮の対米外交の司令塔という印象を持ったのではないか。
だが姜錫柱は間もなく危機を迎えている。この年の七月八日に金日成は心臓発作に襲われ死亡した。金日成の後継者となった金正日が姜錫柱を側近として重用するのか、西側の見方も様々であった。姜錫柱が退き、軍部から対米外交の司令塔が登場するという観測も生まれている。
偶然なのだが、金日成が亡くなった八日はジュネーブでガルーチ・姜錫柱協議が再開される日であった。姜錫柱が受けたショックは想像するに難くない。最大の後援者を失った。協議は八月五日に延期されている。
第二次朝鮮戦争を避けようとする米国は、姜錫柱が要求した軽水炉に応じる決定をして、寧辺原子炉近くの核廃棄物関連施設の特別査察を要求した。しかし姜錫柱は軍事施設は査察の対象にはならないと拒否している。
交渉過程で北朝鮮の人民武力省は、ジュネーブでの圧力下での協議は認められず、軍事施設に対する特別査察は許さないと激烈な声明を発している。朝鮮人民軍と外務官僚の対立が露呈されたわけである。
十月二十一日に米朝合意が成立、調印に漕ぎ着けた。クリントンは金正日に書簡を送り、軽水炉を手配し、その建設期間は暫定的な代替エネルギーとして年間五十万トンの重油を提供すると約束している。
十月二十五日、順安空港に着陸した高麗航空から降り立った姜錫柱は、金永南外相ら党と政府の幹部総出の大歓迎を受け、栄誉式典で迎えられている。金正日総書記の下で姜錫柱は側近の地位を確保したことになる。姜錫柱にとっての第一の危機は脱した。
姜錫柱にとっての第二の危機は小泉訪朝後の日朝関係の悪化ではないか。日朝間の国交正常化交渉は二〇〇一年一月に北朝鮮側から森首相に対して訪朝を求め、森・金正日トップ会談を打診してきた。
北朝鮮はブッシュ米政権の対朝強硬路線に危惧感を持って、日朝間で国交を正常化させ、日本の経済協力を引き出す戦略を立てている。その仕掛け人は姜錫柱といわれる。外務省は日本が突出して日朝交渉を進めるのは、対米関係に悪影響を及ぼすと消極的であった。
そこで森側近の中川官房長官(現在の幹事長)がシンガポールで姜錫柱と極秘会談を持っている。この会談で中川は、正常化のためには拉致疑惑の解決が避けて通れないことを強調し、姜錫柱は「森首相が平壌においでください。おいでくだされば、すべてトップで解決していただきます」と積極的な姿勢を示している。韓国の金大中大統領も「金正日総書記と会いなさい。何もかも分かっている人だ。常識もある」と森訪朝を促していた。
森退陣によって、この下敷きが小泉首相に引き継がれた。訪朝に踏み切って小泉・金正日トップ会談となったのだが、金正日に寄り添った姜錫柱の姿が印象的であった。金正日が拉致の事実を認め謝罪したが、多くの拉致被害者が死亡しており、僅かに五人しか生き残っていないと知らされて、日本の世論は硬化している。
その後の経過については触れないが、金正日が姜錫柱のシナリオ通りに拉致の事実を認め謝罪したのにもかかわらず、日朝関係がさらに悪化したことに不快感を持ったことは明らかでである。姜錫柱はこれ以降、表面から姿を消している。対日交渉の司令塔が軍部出身の外交官僚に移ったとも噂された。
姜錫柱が久しぶりに姿をみせたのは、北京経由でモスクワ入りした時のことである。外交消息筋によれば「姜錫柱は数年前から白内障を患い、以前も秘密裏にパリやモスクワで治療を受けたことがある」としている。白内障だけでなく肝機能障害もあるという。
中国の唐家せん国務委員が昨年十月に訪朝して金正日に会ったが、会談後、姜錫柱とも会談していた。また白南淳外相の死去に伴い姜錫柱が外相代行を務めているとの見方もある。やはり六カ国協議やニューヨークで行われる米朝金融協議で、一九九四年にみせた姜錫柱の手腕に頼らざるを得ないのかもしれない。
384 「風とともに去りぬ」を愛読した姜錫柱 古沢襄

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