写真家・土門拳が亡くなって十七年の歳月が去った。山形県酒田市の飯森山公園にある土門拳記念館には二度訪れたことがある。母が所蔵していた無名時代の土門拳作品・十二枚を寄贈するためで、いずれも1936年頃のものである。
1909年に酒田市で生まれた土門拳は、一家が東京、横浜に移転したので七歳で郷里を離れている。1935年に名取洋之助主宰の第二次日本工房に入って、報道写真を撮り始め、やがて人物写真にも手を染めた。
十二枚の作品は、その時代のもので初期の土門拳作品なのだが、これには次のようなエピソードがある。1936年というのは二・二六事件が発生した年。騒然たる世相の中にあったのだが、ある日のこと、流行作家だった武田麟太郎のところに無名のカメラマンがやってきた。二十七歳の若き土門拳であった。麟太郎は三十二歳。
この夏、麟太郎は長編小説「井原西鶴」を執筆していたが、そのまわりでライカーのカメラを持って、夢中でパチパチ撮影する初対面の土門拳に対して、麟太郎は怒る様子もなく平然としていたという。麟太郎の連載小説を口述筆記をしていた母の方がハラハラするばかり。
夕方になると「散歩に行こう」と麟太郎は編集者たちを連れて飲みに出掛ける。いつの間にか土門拳は、その取り巻きの一人になっていた。麟太郎の底知れぬ魅力に惹かれたのであろう。この時期に土門拳は麟太郎に入れ込んでいる。夜の散歩?だけでなく昼も根岸の競馬場にお伴して写真を撮りまくった。(競馬場で麟太郎と古沢元=撮影・土門拳)
麟太郎には藤村千代さんという愛人がいた。土門拳、千代さん、母の三人でお茶を飲むことが多くなったが「五歳しか違わないのに武田麟太郎は巨人にみえる」と千代さんに言ったという。麟太郎の一番弟子だった古沢元とは、同じ東北人だったこともあって親しくなり、何枚かのポートレートを撮した。(文学者会で発言する古沢元=撮影・土門拳)
土門拳のことを千代さんと母は「猛烈な読書家で写真家にならなかったら、作家としても通用する教養と文章力があった」という。麟太郎もそれを認めていたから、交友が密なものがあった。単なる取り巻きではなかった。時には麟太郎、土門拳、古沢元が芝生の上で寝転びながら、リアリズム文学を論じることもあった。土門拳はリアリズム写真のことを考えていたのかもしれない。(芝生に寝転ぶ麟太郎と古沢元=撮影・土門拳)
古沢元と真喜夫婦作家の文学碑が岩手県西和賀町沢内の玉泉寺に建立されているが、そこに土門拳が撮影した二人の写真が石刷りで嵌め込まれている。孤高の雰囲気を漂わす古沢元の風貌に土門拳は興味を持った。古沢元の単独ポートレートを五枚も撮していた。(東北人の古沢元=撮影・土門拳)
土門拳は日本を代表する写真家となったが、演出のないリアリズム写真に終生こだわりをみせている。その点では妥協のない写真家だったが、それは麟太郎の影響するところが大きかったと思う。1937年6月から麟太郎は初めての新聞小説「風速五十米」を連載するが、毎晩のように”陣中見舞”と称して押し掛けている。
麟太郎は「日本の写真家は汚いものを綺麗に写してしまう。そこにリアリズムの貧弱さがある」と土門拳に言った。リアリズムは右傾化する戦前の風潮に抵抗し、さりとて左翼の観念主義や政治的傾向にもついていけない作家たちが唱えた現実正視の活動。綺麗事でない現実正視の土門写真の根っこは、麟太郎の文学精神に対する共感があった。
戦前の土門作品には女性を撮したものが少ない。敗戦後の混乱期になって女優をモデルにした作品がみられるようになった。生活のためとはいえ、作られた女優の美しさを撮影する土門拳には抵抗感があったのではないか。千代さんと母は「土門さんが無理している」と思ったという。
土門拳のことを知り尽くしていた千代さんは、自分の写真は撮らせなかった。「リアリズムお化けにされてしまうかも・・・」と冗談をいった。神経が図太いところがある母の単独写真は三枚。女性の柔らかな感じが浮き彫りにされている。いずれも未発表の無名時代の土門写真だが、写真界の第一人者になる素質が見事に開花されている。(戦前では数少ない女性ポートレート=撮影・土門拳)
395 土門拳とリアリズム写真 古沢襄

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