わが家からマイカーで15分とないところに守谷城趾(守谷市守谷字城山)がある。典型的な水城だったが地元の人は平将門が築いたものだという。六〇年安保の当時、防衛庁長官だった赤城宗徳氏は将門研究でも知られていた。彼の研究では「将門の弟将頼は、御厨三郎と称したことをみれば、ある時期に将頼を御厨の所在地・守谷に駐在せしめていたのかも知れない」といっている。
平将門(九〇三年・・九四〇年)は武家平氏の一門だが、京都の関白藤原忠平の護衛武士となっている。五年後に父親の平良将(鎮守府将軍)が急死したので東国に戻ったが、その時に相馬御厨の下司の肩書きがついた。
相馬御厨の番所・守谷の一帯は耕作には適しない湿地帯だったという。だから守谷城というよりは番士が詰める規模の小さい詰め所程度のものだったのではないか。間もなく将門は新しい開拓地・鎌輪に移った。相馬御厨の守りはは弟の将頼に任せている。赤城宗徳氏は、このことを指摘しているのだろう。
付近一帯が沼地の多い湿地帯を利用して天然の要害である城を築いたのは相馬氏。旧守谷町の市街地のほとんどが湖沼地帯だった頃だから、湖の中にポッカリ浮かんだ水城だったのであろう。今では、そのほとんどが埋め立てられて密集した住宅地になっている。僅かに守谷沼が昔の面影を遺す程度だ。
15年前にこの地に移転してきた時には、地名は北相馬郡守谷町であった。福島県の相馬の野馬追い祭りが有名なので、茨城県に北相馬郡があるのに不思議な思いをした。相馬氏の発祥の地は下総国相馬郡である。下総国は北に大きくせり出していて、守谷の地は下総国に含まれていた。
相馬氏の先祖は平将門だという。となると桓武平氏千葉氏流ということになる。相馬姓は関東と東北に多い特徴があって、全国で約三万の相馬姓がある。その多くは将門公を先祖と仰いでいる。
その証拠となるのは九曜の家紋。将門はこの紋章を用いたが、千葉氏も九曜紋、その流れを汲む相馬氏も九曜の家紋を使う。相馬姓で九曜紋を持っていれば、将門の末裔とみてよいだろう。「天慶の乱」で滅びた将門だが、千葉県や茨城県には今もって将門信仰が残っている。将門の通称は相馬小次郎。
京都の都とは違う武家平氏の独立王国が、この地にあったということになる。私はそのことを知らずに相馬氏の発祥の地である下総国相馬郡の守谷に居を定めたのだから、縁の不思議さを思わざるを得ない。しかも赤松系古沢氏の本家は九曜の家紋を用いた。支族のまた支族である私の家も先祖を辿れば将門に行き着く可能性すらある。そんな空想に耽りながら守谷城趾を散策してきた。
406 平将門と守谷城趾 古沢襄

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