相馬姓は全国で約三万あるが、その本流である千葉姓は約六万だという。丹羽基二氏の説だから間違いない。ところが発祥の地である千葉県や千葉市よりも仙台市に約一万でもっとも多い。盛岡市にも約一五〇〇人の”千葉さん”がいる。岩手日報から萬鉄五郎記念美術館の館長になった千葉瑞夫氏からことしも年賀状を頂戴したが、遠祖は平将門だとはご存知ないだろう。
東北に千葉姓が多いのは、千葉常胤(七代目)が源頼朝方について義経追討の先陣に加わり、その戦功によって東北経営を任されたことによる。武家平氏の名門である千葉氏が源氏の下風に立つのは奇異な感じを受けるが、常胤は伊豆国で挙兵した頼朝が石橋山の戦いに敗れた後に安房国へ逃れると加勢している。その後、一貫して頼朝方に立って軍功をあげた。
千葉氏は妙見菩薩を信仰する一族なのだが、常胤が零落した千葉氏を再興する祈願をしたら頼朝方につけ、とお告げがあったという。少し出来過ぎた話なので、私は末子・日胤の仇討ち説をとっている。常胤には近江国園城寺の僧となっていた日胤という子がいた。律静房と称する祈祷師だったが、以仁王の挙兵に加勢して平家に討たれたという。常胤が頼朝に加勢したのは、日胤の仇をとるのが目的であったとする説である。親子の情としてこちらの方が説得力がある。
いずれにしても常胤の代になって千葉氏は盛り返した。長子・胤正が千葉宗家を継ぎ、次子・師常(相馬小次郎)が相馬家を興した。三子は武石家、四子は大須賀家、五子は国分家、六子は東家の祖となっている。
桓武平氏の流れを汲む千葉氏は頼朝の鎌倉幕府からみれば外様なのだが、その軍功によって「右大将頼朝の御時、千葉家の常胤は鎌倉に無二の忠節ありて、将軍より御崇敬あり。官・加階はあらざれども、諸家の上座に列す」という扱いを受けている。
分家一族の中でも下総国相馬御厨(守谷)の相馬氏は、周辺地域の支配権を広めて、現在の取手市、柏市、我孫子市にまで勢威を及ぼしている。その拠点となったのが守谷城。城の周囲が湖沼に囲まれ、常陸川、絹川水系を使う船舶は、守谷城はじめ相馬氏の諸城の間を通過せねばならない。これらの物流、交易の拠点という地の利、水の利が相馬氏繁栄の基礎となったのであろう。
407 千葉一族と東北 古沢襄

コメント
ご指摘の様に千葉氏が侍所千葉介として現れるのは、室町幕府の鎌倉府です。頼朝は伊豆で挙兵し石橋山の戦いに敗れて安房に逃れますが、そこで千葉常胤に加勢を求め、助勢した後は平家との合戦や奥州藤原氏との戦いに参じて軍功をあげています。
しかし桓武平氏の出自ですから源家からみれば外様。鎌倉幕府が侍所を設置して、和田義盛を別当に据え、梶原景時は所司に任命した時も、中央機関には登用されずに千葉介という地方長官の職しか与えられていません。
姓氏家系大辞典に「右大将頼朝の御時、千葉家の常胤は鎌倉に無二の忠節ありて、将軍より御崇敬あり。官・加階はあらざれども、諸家の上座に列す」とあります。敗戦の将だった頼朝に常胤が加勢し、関八州の武士が頼朝に靡いたことを思うと、鎌倉の上座程度の褒賞ではないと思いますが、猜疑心が強い頼朝ですから千葉氏がこれ以上勢威を持つことを怖れたのかもしれません。
しかしこれが幸いして和田義盛、梶原景時が誅殺された時にも無傷です。和田氏の滅亡は執権・北条義時の策謀だといいますが、千葉氏が北条方に加担した記録はみておりません。鎌倉幕府の実権が執権・北条氏に移った後には、常継が北条時政の烏帽子・子になっていますが、位階は不明。夭折したのかもしれません。原氏系図に原十郎・常継の名があります。
胤綱は承久の乱で軍功をあげて「東海道大将軍」の称号を貰いますが二十一歳で死亡。頼胤は文永の役に出陣、傷を負って三十七歳で死亡。宗胤も弘安の役に出陣しております。宗胤は肥前・千葉氏の祖。
頼朝以来の千葉氏の功績を考えると、少なくとも千葉本宗家は鎌倉府以前に侍所に出仕いるとみたのですが、ご指摘によって北条執権下の千葉氏を一つひとつ洗い出すと、その事実が掴めません。逆に貞胤は新田義貞に従い、北条高時を討つ側に回り、建武の中興以降は足利尊氏方についています。
千葉氏の研究では千野原靖方氏の「千葉氏」が優れています。鎌倉府では千葉氏は外様筆頭として侍所に出仕し、所司(長官)であったとしております。鎌倉幕府では侍所長官を別当、次官を所司と称したが、室町幕府では頭人(長官)を所司といい、その下に所司代を置いた(京都)。鎌倉府も所司と所司代を置いたらしいと言っております。
奥深いですね。
僕も父親に「千葉家のルーツ(僕ん家ですかね)は、東北だ!!」と言われたことがあります。
まあ、自分の家紋を間違えて息子に教えるような人ですからあてになりませんが・・・。
今調べてみたら岡本家に多い家紋だということなのできっとどこかで見間違えたんだと思います(母親の旧姓が岡本なので)