450 大池唯雄氏の遺児・小池光氏 古沢襄

サフランのむらさきちかく蜜蜂の
   典雅なる死ありき朝のひかりに
短歌の世界には、まったくの門外漢である私だが、歌人・小池光氏の作品には惹かれるものがある。何よりも小池光氏が直木賞作家・大池唯雄氏の遺児だと知った時には、驚愕して二、三日は茫然として過ごした。
あれは昭和三十二年頃だったろうか。共同通信社に入社して最初の赴任地が仙台であった。上野周辺の桜が満開から散りはじめていた。東北本線で白河の関を越えたら、粉雪が舞っていて、仙台の駅頭に立ったらみぞれ混じりになっていた。
仙台は父・古沢元が旧制第二高等学校で学んだ土地である。二高の同級生で父の生涯の友だった大池氏が健在で、ハガキで私の赴任を知らせてあった。ほどなくして東一番丁にあるレストラン「幸福堂」で大池氏にお会いした。
その時にとわず語りに、大池氏は息子が十歳になると言っていた。十五歳も年下の人のことだから、そのまま聞き流していた。小池光氏は、その人であった。昭和二十二年生まれ、団塊の世代だから還暦を迎えた筈である。
ことしになって共同通信社の後輩である横山立氏が拙宅に訪ねてきて一夜痛飲した。還暦を迎えて定年退社したことを知らせてくれた。小池光氏と同世代の人だが、四十歳で金沢総局長になった時に、入社して間もない横山氏を部下に持った。
京都大学を出て金沢総局の配属された横山氏との触れあいは、戸惑うことばかりであった。全共闘世代の横山氏には人を寄せ付けない甲羅の様なものを感じて、それを解きほぐすことは難しいと思う日々が続いた。そのくせ二人で酒を飲むと人なつこさを感じる。
ある日のこと金沢に仲間がくるから一緒に飲まないかと誘われた。飲み屋にいって驚いた。共同通信社の反代々木・全共闘世代が数人、一堂に会していたのである。黙って話を聞いていると、この世代が純粋で、しかも苦悩する集団であることが分かった。会社をやめて人里離れたところで農業をやりたいという男もいた。
小池光氏もこの頃、東北大学理学部を卒業して教職についていたのではなかろうか。団塊世代の苦悩を背負っていたと思う。世の中は六〇年安保から七〇年安保を経て、田中角栄政治による列島改造がまっしぐらに突き進んでいた。効率主義が日本を覆い、政官財の癒着システムが完成しようとしている。
共同通信社の末端職制になったばかりの私にも、この世の風潮をブチ壊したいという衝動に駆られる時があった。まさか後に人事・労務担当の役員になって、労働組合と対峙する身になるとは思いもしなかった。田中政治の打破ばかり考えていた。
そんな私のことを見ていたのであろう。横山氏は私の出身である政治部に行きたいと進路希望を出してきた。彼を政治部に送りだして、間もなく私も本社に帰任した。それから十年ぐらい経った時であろうか。ある日のこと政治部から外信部に移るつもりだと相談を受けた。やがてヨハネスブルク支局長になって日本を離れていった。
金沢総局時代には手を焼いた後輩だったが、それだけに横山氏には思い入れがある。ヨハネスブルクから帰任した時には、私は経理局長になっていた。政治記者が経理局長になるのだから、共同通信社も思い切った人事をやるものである。局長室にやってきた横山氏は袋の中からヨハネスブルクのコインをどっさりお土産に持ってきてくれた。私のコイン蒐集癖を知っていた。
定年を迎えた横山氏の顔をみながら、後輩の中で、この男が私のことを一番知っていたのだという感慨に襲われた。ふっと小池光氏のことを思いだした。二人の顔が重なってみえる。だが小池光氏とは会ったことがない。父親同士が無二の親友だったのに遺児同志が会ったこともないというのは、この世の不可思議さを思わせる。小池光氏の短歌だけが、私との絆を結びつけている。

コメント

  1. ふゆのゆふ より:

    はじめまして。小池光さんに短歌の選をしてもらい、ブログで楽しませてもらっているものです。私は1965年の生まれですから、小池さんが大学へは行ったとしにはまだ赤ん坊でした。
    私の大学の指導教官が全共闘世代でした。院生の先輩は「先生は全共闘だから…こわいよ」といったのですが誰一人その意味がわからなかったのです。
    小池さんと初めて会った時の印象があまりに強かったらしく私はいまだに小学生のように思われています。
    歴史ってあるんですね。

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