NHKの大河ドラマで山本勘助を主人公にした「風林火山」が面白い。久しぶりに見応えがある作品となった。原作は井上靖の「風林火山」。このところNHKの大河ドラマが不評だったのは、ストーリーもさることながら、配役に難があったからではないか。時代劇に流行(はやり)のチャラチャラした人気俳優を当てれば良いというものではなかろう。
ドラマだから史実に忠実である必要はない。山本勘助が実在したか、議論があるところだが、背景となる歴史には気を配っておく必要がある。史実にばかりとらわれるとドラマ性が失われる。そのかね合いが「風林火山」では、うまくとれている。
先週は武田晴信(後の信玄)が初陣を飾った海の口城攻めが主題となった。この合戦は「甲陽軍鑑」にでているが、架空のお話というのが定説。甲陽軍鑑の記述を追ってみる。
<その年(古沢注記 天文五年)の十一月は晴信公の初陣であった。敵は海野口(同 信州南佐久郡南牧村)といって信濃国に城をもつ。ここに信虎公は、出陣なさって敵を追いつめたが、城内の兵は多い。平賀の源心法師という者が加勢に来て籠もっている。(同 ドラマでは源心が城主。だが平賀源心は佐久市平賀の平賀城主が史実)
とりわけ大雪が降って攻めにくく、城はとても落ちそうな気配すらない。甲州勢はそこで内々相談して、城内には三千ほどの人数ということなので、我攻(同 無理な攻め)ではまずいということになる。
味方の兵もよもや七、八千には達していまい。それに今日はすでに十二月二十六日で暮れもせまった。ひとまず甲州へ帰陣されて、来春攻めてはいかがであろうか。敵も大雪であり、年末であり、追撃するなどということは決して考えられないことですから・・・と申し上げると、信虎公は納得して、では明日早々に引き返そうと決心しておられたところ、そこへ晴信公が参られて、それでは私にしんがりを仰せつけられたいと所望されたのであった。>
この下りは高坂弾正が天正三年に記した形をとった。天文五年からおよそ四十年後の記述だから、海の口城攻めの信憑性が疑われている。他には海の口城攻めの記録が存在していない。
高坂弾正は武田信玄・勝頼に仕えた知将。高坂昌信(こうさか まさのぶ)といい、武田四名臣の一人として数えられ、徳川家康を破った”三方ヶ原の戦い”では、大勝に湧いて追撃を主張する家臣団の中で、状況を冷静に分析して見せて深追いは避けるように信玄に進言している。
江戸時代に編纂された甲陽軍鑑は、高坂弾正が原著者だといわれている。つまり高坂弾正が生前に原本を書いて、その死後、甥の春日惣次郎らが書き継いで世に出たという。したがって当時の書状など照合すると正確な部分もあるが、明らかに間違っている箇所も多い。これが甲陽軍鑑は資料性が低い書物とされる原因である。なお高坂弾正は天正六年五月七日の没し、墓は信州・松代の明徳寺にある。
海の口城攻めが史実であろうと、なかろうと背景となる歴史は、甲斐・武田が信州攻略の最重点目標としたのは、武田に屈服しない”佐久衆”の平定にあったのは間違いない。信州の中でも佐久衆は独特の風土からくる独立心が強い。それは現代の人脈にも受け継がれている。
「そむく佐久を殺せば、佐久は限りなくそむくでしょう。佐久の人ことごとく叛いて死に絶えても、草木が武田に叛くでしょう」とは、信州人の作家・新田次郎が、著作の「武田信玄」で戸石城での闘いを前に死を覚悟した横田備中守高松の最期の言葉として描いている。
私は政治記者時代に、三木内閣の官房長官だった井出一太郎氏のところに通ったことがある。温厚な人柄のようにみえたが、反田中角栄の強硬派として一歩も譲らない気迫には圧倒された。
一太郎氏は長男だったが、三男の武三郎氏は共同政治部の先輩デスクであった。六男の孫六氏は、まだルポライター時代だったが、共同政治部の信州出身者が集まって飲んだ記憶がある。いずれも温厚な人柄なのだが、自説を曲げない頑なとも思える風格を備えていた。佐久衆は現代でも生きている。
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