信州の佐久衆が独立独歩の気風を持っていると言ったが、どこの県にも同じ様な土地柄があるのではないか。一九八二年に私は女房を連れて盛岡市を訪れた。古沢元・真喜夫婦作家の遺稿集「びしゃもんだて夜話」を発刊したら、地元の岩手日報が一面トップで報道してくれた。
それをみた旧制盛岡中学の同級生が私たち夫婦を招いてくれて、一夜の歓談が持たれた。古沢元(本名・玉次郎)は大正15年に盛岡中学を卒業している。同級生だった直木賞作家の森荘已池氏にも初めてお会いした。中学時代に森氏は宮沢賢治、古沢は石川啄木に傾倒していたという興味深い話も伺った。(二十五年前の森荘已池氏と私)
「明日は父の故郷の沢内村を初めて訪れるつもりです」といったら「岩手県では”沢内衆”という言葉がありますよ」と教えてくれた方がいた。私は母の実家がある信州の上田に疎開したので、父の故郷とは縁がなかった。疎開に当たって、父は母校の盛岡中学に入れると言ったが、母が「一人息子を寄宿舎に入れるなんて、とんでもない」と頑強に反対した。父が折れて、信州の上田中学に転校したいきさつがある。だから沢内衆といわれてもピンとこなかった。
盛岡は風格がある地方都市である。沢内衆という言葉の響きからは、雪に閉ざされた陸の孤島という印象を持つ。マイカーで盛岡から西走し、雫石町から沢内村に入るには山伏峠を越えていかねばならない。曲がりくねった峠路を登りながら、気が重くなってきた。
峠の頂上から下ると沢内村の緑の盆地がパノラマの様に開けた。私の想像していた村の風景とは違った豊かな世界があった。「沢内三千石はお米の出どこ 枡(ます)ではからねで 箕(み)ではかる」と沢内甚句で歌われている。車から下りて小休止しながら涼しい風と空気を思い切り吸った。
村役場では太田祖電さんという名物村長が待っていた。直木賞作家・高橋克彦氏の血縁で西和賀の郷土史には滅法強い。父方の親族にも会うことが出来た。古沢家の菩提寺である玉泉寺で、後に親友となる泉全英和尚とも会ったが、今東光そっくりの面構えで可笑しかった。短い時間で沢内衆に数多く会ったのだが、貧しさを教育重視で、はね返す伝統のようなものを感じとることができた。
江戸から明治に移る変革期の時代に沢内村ほど寺小屋が多かったところはない。明治五年の文部省布達で寺小屋と私塾がいったんは廃止されたが、すぐに家塾(無届)と私立学校が復活している。岩手県下で最初に作られた小学校は十三校だが、沢内村の新町小学校がその中にある。やがて家塾や私学が続々と公立小学校に改編されていった。
この卒業生が県下ナンバーワンの盛岡中学などに続々と進学している。郵便局の秀才が旧制第一高等学校に飛び級で合格して、新聞ダネになったこともある。仙台の第二高等学校に入った者も古沢元ら数多く出た。佐久衆とは異色の沢内衆が、この陸の孤島から生まれたのは壮観といわねばならぬ。
これは私の独断的な解釈だが、この土地が周囲を峻険な山で遮られていたことと関係がある気がする。江戸時代には沢内村は盛岡藩による追放、流刑の地であった。分かっているだけでも百六十九人の追放者がきているが、多くは政治犯で教養があった。追放、流刑といっても逃亡できない自然環境にあったから、富裕な農家に預かりの身となっている。
閑にまかせて寺子屋の師匠のような役割を果たしていた可能性が高い。沢内村にきて驚くのは多くの人が書家と見間違う達筆な字を書くことであった。現在の西和賀町長の高橋繁氏、元沢内村長の高橋一雄氏は書家といってもよい。私の祖父・古沢孝三は一流の書家といわれた。江戸時代に雫石邑に在住した寺小屋の師匠・古沢理右衛門の筆写は、現在でも遺っているが、まさに当代一流の筆使いをしている。独特の風土の中から生まれた沢内衆というのは、現代にも脈々と受け継がれている。
コメント
母方の祖父高橋久次郎は湯田町川尻の農家に生まれました。学問したいという血判状を実家に残し、布団を背負い自力で東京師範学校に進んだという逸話がありす。兄弟たちも自力で医者や教育長になりました。
後に地元の高校で教え、女子高等師範を出て全国で初めて女性の県視学となった井筒きつ(水沢出身)と結婚し、空襲を逃れて、故郷湯田に帰り地元のためにつくしました。
国語教師だった祖父は達筆で書道をたしなむ人でした。太田祖伝氏や高橋繁氏とも深く親交がありました。
彼らの気風・気概はこういう風土が育んだものだったのだと改めて納得しました。
今日は北上市でもかなり雪が降って、雪かきをしながら、祖父母のことを思いだしました。
(久次郎の長女、高橋由美子の娘の香織)