ホノルルで高齢の日本人売春婦にあったことがある。一九八〇年のことだ。この頃、私は日本から発信する英文ニュースと日本語ニュースをアメリカ本土で広げることを一時期やっていた。外務省に寺田輝介氏という旧知がいたので、日本の声を直接アメリカに伝えるにはどうしたらよいか?それには日系アメリカ人に焦点を絞って日本のニュースを直接送り込むことが先決であろう、という相談をしていた。
社団法人である共同通信社も手をこまねいていたわけでない。国際局からアウトゴーイング・サービスと称する英文ニュースを連日、無線で発信してきた。日本語版も流している。しかし在米の邦字紙からは不評であった。アメリカの西海岸では不法な外国の電波を防ぐ目的で、妨害電波を出している。その影響で無線の共同ニュースが乱れて読みとれないことがある、と苦情が寄せられていた。
日系アメリカ人はハワイ州とカリフォルニア州に多い。在米の邦字紙も、そこに集中している。共同通信社のシステム局で対応策を検討した結果、一九七九年から稼働したインマルサット(国際海事衛星機構)の静止衛星を使う送信をやることになった。妨害電波は横波の無線に対しては有効だが、空から降ってくる無線には影響が及ばない。
だが当時はロスアンゼルスにはインマルサットの受信基地局があるが、ホノルルにはない。ロスとホノルル間は通常の電話回線を使ってニュース送信をすれば、妨害電波の影響を受けないですむ。大雑把にいえば、そういう計画を持って私はボストンバックひとつ下げてホノルルに飛び立った。
とはいうもののホノルルからは日本のマスコミ支局はすべて撤退して、ロスに拠点を移していた。電通の支社も撤退していた。ハワイで最大のハワイ報知という邦字紙が、ホノルルのどこにあるか見当もつかない。思いあまって外務省の寺田輝介氏に相談したら、ホノルルの総領事館に公電を打ってくれた。
東京オリンッピクの翌年だったろうか、椎名外相時代の外務省担当になったことがある。そこで報道課にいた寺田輝介氏と知り合った。後に駐韓国大使と活躍した寺田氏だが、一九六一年、東京大学法学部在学中に外交官試験にパスした秀才。二〇〇〇年二月に韓国に赴任するに当たって、韓国関連書籍五十冊余りを読んで基礎知識を身につけたという本の虫であった。
同じように本の虫だった私と意気投合し、寺田氏が紹介してくれた六本木のイタリア料理店・キャンテイでバジリコ・スパゲッテイを食べながら、歓談した昔が懐かしい。秀才にありがちな冷たさがなく、世話好きな人柄であった。この三月五日に舞鶴市西駅交流センターで北朝鮮の国内事情などについて講演をしている。北朝鮮の現状について、金正日総書記が周囲の官僚らの衣食住を手厚く優遇していることを説明した上で「国民経済はほぼ崩壊状態にあるが、政治的な枠組みは強固。軍事クーデターは考えにくい」と寺田氏は言っている。
ホノルルの話に戻ろう。空港にはノンキャリアの事務官が迎えにきてくれていた。まず連れていかれたのはスーパー店であった。「背広でネクタイを締め、首にカメラをぶる下げていると日本人だとすぐ分かる。ホノルルは治安が悪いから・・・」といって安物のアロハ・シャツを買うように勧められた。
「ドル紙幣は財布に入れておいては危険。裸のままズボンのポケットに入れて、上からハンカチをかけておくのです」・・・なるほど、言われた様にすると私は中国人か韓国人か分からなくなる。ゴルフで日焼けしているから、ベトナム人といっても通用しそうである。このいでたちでホノルルのハワイ報知や日本語ミニ放送局を回った。
一仕事終えたら「少し危険なところに行きましょう」と事務官氏にいわれて怪しげなバアに連れて行かれた。そこで出会ったのが、アメリカ兵のオンリーだったが、ホノルルで捨てられたという元パンパンであった。
ビールを奢ると「アメリカ軍は私たちを連行して、いたぶった揚句、捨てて何の補償もしてくれない。日本政府も見向きもしてくれない」と喚いた。肌も荒れて、老醜をさらけ出している。ビールの酔いも冷めて、寒々とした思いだけが残る。20ドル紙幣を握らせて早々にバアをでた。「ホノルルには、あの手の老婆がかなりいるのです」と事務官氏は教えてくれた。観光で訪れる日本人が知らない夜のホノルルがある。華やかな海岸風景とは無縁の世界であった。
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