470 真田幸隆と山本勘介 古沢襄

甲斐武田の信濃攻略は甲陽軍鑑を読むよりは真田関連の文書をみた方が史実に近いと思うことがある。真田幸隆は武田信虎らに攻められて上州の箕輪城に落ちのび、城主の長野業正の庇護をうけたが(天文10年5月)、その6月に信虎は、わが子・晴信によって甲斐から追放された。
天文14年(15年説もある)になって晴信は幸隆を上州から呼び寄せて武田武将に加えた。幸隆の知略を認めた板垣信方が間に立ったという。(真武内伝)NHKの大河ドラマ「風林火山」では、来週頃、山本勘介がその使者に立つという劇的なシーンを放映するのではないか。
これで分かる様に真田は武田武将でありながら、客観的な目で信玄の信濃攻略をみれる立場にいた。甲陽軍鑑が信玄賛美に偏る傾向があるが、真田関連の文書からは板垣信方に好意的な点があるにしても、信濃土着の武将・幸隆らしい目を失っていない。
難点があるとすれば、幸隆の活躍舞台が限られていたことにある。しかしドラマ「風林火山」の主人公・山本勘介は川中島の合戦で討ち死する設定になる筈である。信玄が主人公ではないのだから、限られた幸隆の活躍舞台で十分にこと足りる。
ドラマだから史実にこだわる必要はないのだが、信濃の国人衆をアメリカ・インデアン並に描かれては、信州人の血をひく私も困る。甲州人には悪いが信州人にも意地がある。
天文17年の上田原の戦いで晴信は村上義清に敗れたが、天文19年に小県郡戸石城攻めでも退却を余儀なくされた。世にいう”戸石崩れ”である。戸石城は上田市街の北東にある山城で村上義清に属していた。この城を落とせば義清の背後を突くことが出来る。
城攻めは一ヶ月に及んだが、落城させることができずに晴信は九月一日に退却命令を出している。ところが天文20年5月26日に幸隆軍は僅かな手兵で戸石城を落とした。同じ東信濃の国人衆だから「先がみえた義清につくよりも、先がある晴信の味方になれ」という説得工作が効を奏したのであろう。策士・幸隆の面目躍如たるものがある。
もっとも山本勘介のでる幕がなかったから、ドラマではカットされているかもしれない。上田盆地を晴信によって与えられた幸隆は、戸石城を本城にしたらしい。村上義清に圧力をかけただけでなく、武田信玄と上杉謙信の決戦の場となる川中島は指呼の間にある。
先を急いではドラマは山本勘介の死で終わってしまう。来週の信虎追放劇の後は、舞台を諏訪に移して、信玄がもっとも寵愛した諏訪頼重の息女との恋の物語になるのだろう。武田勝頼は二人の間にできた子である。武田家系図では「女」としてしか表記されていないが、「武田信玄」を著した新田次郎氏は、諏訪湖にちなんで「湖衣姫」と名付けている。絶世の美姫だったという。

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