旧制第四高等学校(現在の金沢大学)の同窓生だった谷口吉郎(博物館明治村の初代館長)と土川元夫 (後に名古屋鉄道社長を経て名古屋鉄道会長となる) の2人が、失われつつある明治の洋風建築のうち、芸術上、歴史上価値あるものを保存したい意見で一致し、その修復、移築保存のための財団を1962年(昭和37年)7月16日に設立。
名鉄が財政面で全面援助し、博物館明治村は愛知県犬山市の入鹿池のほとりに1965年(昭和40年)3月18日、オープンした。尚「明治村」という名称は名古屋鉄道株式会社が所有する商標である。
フランク・ロイド・ライトの代表的作品(関東大震災と同年の1923年竣工)として知られた東京の帝国ホテル。同ホテルの建て替え構想が発表されると、日・米両国で保存を求める声が高まっていた。
記者会見でコメントを求められた佐藤栄作首相により、明治村に再建する案が提示された。1967年にホテルは取壊され、10数年の歳月をかけて、1985年に再建された。玄関部分だけとはいえ、明治村最大の建物である。
「明治村帝国ホテル中央玄関」として、2004年2月17日に登録有形文化財登録(東京都千代田区内幸町1丁目にあったホテルの再現)。事件はこのときに起きた。帝国ホテル旧館の保存に最も熱心だったのは元総理の吉田茂だった。
そのことを聴いたある参院議員(特に名を秘す)が、明治村経営の土川元夫に構想を伝えた。問題になったのは運送費だった。土川はホテル側負担を主張。ホテル側は不可能と拒否。結局はどちらが負担したかは聞き漏らしたが、いずれにしろ佐藤栄作総理は帝国ホテルに怒ったそうだ。
その結果、新館を30階以上と申請していた帝国ホテルの新築計画は総理の指示で17階に削られてしまった。当時、関係者から直接聞いた話である。
当時、帝国ホテルの社長は某大国大使を勤め上げた人。設計図は30階以上を前提になされているから、たとえば1階のロビーは広くとられている。
それが17階では広すぎる。そこで一部を有料コーナーにした。結果、ケチ帝国の評が飛び、客種が変わった。そんなことから大国は使わなくなった。
ブッフェスタイルの食事は、帝国ホテルが日本で初めて取り入れた。当時北欧から来たスモーガスボード(ブッフェ)は非常に言いにくく馴染みが無いため当時のコック(村上信夫)がこの料理スタイルの名前を社内公募し「北欧と言えばバイキング」との発想からバイキングレストランと名づけた。
現在もこのレストランは帝国ホテル本館17階のインペリアルバイキング SAL(サール)の名で残っている。レストランは好評を博しバイキングはブッフェレストランの代名詞となった。
<帝国ホテルの経営については、戦後、金井寛人が株式の多くを保有し、国際興業の小佐野賢治が譲り受けた。2006年9月末現在で国際興業が発行済み株式の39.58%を保有している。
ただし国際興業は小佐野の死後、アメリカのサーベラスに買収されており、サーベラスの意向で株が売却されるのではないか、と見られている。>(『ウィキペディア』より)。
愛知県犬山市に明治村がオープンしたのは1965(昭和40)年の3月18日。もう42年も前のことである。2007・03・18
478 明治村ってあるの 渡部亮次郎

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