産経新聞中国総局長伊藤正による大型連載「鄧(とう)小平秘録」の第一部『天安門事件』が2007/03/18に終わった。第二部は近く掲載が再開される。
人民解放軍が人民を銃撃して世界を震撼させた第二次天安門事件(1989年6月4日)について中国当局は事件そのものに「封印」してしまおうとしているため、真相解明は進まない。
<事件から間もなく18年。中国では、「六四」という事件の通称も知らない世代が増え、北京市民も当時の体験を記憶の引き出しに閉じこめたままだ。
中国のメディアは先月、トウ小平(とうしょうへい)氏の死去(97年2月19日)10周年で特集報道をしたが、「六四」に触れた記事は一本もなかった。報道規制の結果と関係者は言う。
「中国の特色ある社会主義の正しい方向を堅持」(胡錦濤演説)し、「今日の発展がある」(温家宝(おんかほう)首相)とはいえ、天安門事件は消し去るべき過去になっている。当時の特殊な状況は再来しない、と。>
しかし、それに今回、挑戦したのが伊藤正氏であり、おそらく彼の畢生の作となる大作である。連載の始まったのは2007年2月14日だった。外国人としては初挑戦で、したがって相当な危険を冒したものといえる。
だからすべて公刊された資料により、永年の中国滞在で研ぎ澄ました見識を加えて歴史の真実に肉薄している。おそらく中国人でもここまでは分析できないだろう。
伊藤正 産経新聞中国総局長兼論説委員。1940年生まれ。東京外語大中国語学科卒。65年共同通信に入り、香港、北京、ワシントンの各特派員の後、87年から91年まで北京支局長。
共同通信論説委員長を経て2000年産経新聞に転じ、同年12月から現職。著書に「トウ小平と中国近代化」などがある。(紙面での自己紹介より)。
トウ小平はあの日、何故、天安門広場で学生ら群集に向かって発砲させたか。32回の連載を読み終えて得た私の結論は政治は共産主義体制、経済は市場(資本)主義といういわば一国二制度を維持するため、人民を犠牲にしたもの、である。
第二次天安門事件。「更なる民主化を要求する学生、知識人、党内改革積極派と共産党独裁体制の堅持を強調する党指導部勢力とが対決し、後者の軍事力行使によって前者を鎮圧して決着した事件。これによって趙紫陽総書記は失脚した。(岩波『現代中国事典』)
<天安門事件の犠牲者数には諸説ある。李鵬(りほう)首相が89年9月、訪中した自民党の故伊東正義氏に明かした人数は、319人(十数人の兵士を含む)。うち学生は36人で、大半は市民、労働者だった。
天安門広場は学生らに代わった数十台の戦車が占拠した。北京では6月4日以降も市民の抵抗は続き、ときどき銃声が響いた。抗議デモが各地で起こり、外国政府の非難声明が相次いだ。
トウ小平氏は事件後の6月9日、戒厳部隊幹部と会見、健在ぶりを示した。笑みを浮かべ、将官に言葉かけるトウ氏は上機嫌に見えた。
しかし「心の底では痛みを感じていたはず」と楊継縄記者は、上層部に近い友人から聞いた話を「中国改革年代的政治闘争」に書いている。
「天安門事件後、トウ小平は家では、一日中もんもんとして話をせず、数年前にやめたたばこを吸い続けた。卓琳(たくりん)夫人がいさめると、『わしにはたばこを吸う自由もないのか』とどなった。
毛毛(マオマオ)(三女トウ榕(とうよう)氏)が『自由が欲しいですって? 学生は自由を求めて天安門前に座り込んだのよ。あなたも座り込みに行きなさいよ!』と揶揄(やゆ)した。
その時、84歳。トウ小平氏は政治からの「完全引退」を決めていた。「武力鎮圧以外に選択の道はなかった」と自らに言い聞かせながら。
トウ小平氏は事件後の89年6月9日、戒厳部隊幹部と会見した際の講話をこう切り出した。
「今回の風波は遅かれ早かれやって来るものだった。それは国際的大気候と中国自身の小気候によって決定されており、人びとの意思で変えることはできなかったのだ」
「大気候」とは、80年代後半、ゴルバチョフ氏の登場で加速したソ連・東欧の民主化と政治変革の潮流であり、「小気候」とは、70年代末以来の改革・開放の進展とともに、中国でも同様の要求が政権内外で高まったことを指す。
89年には東欧の社会主義政権が相次いで崩壊、ソ連も90年に一党独裁を放棄、翌年には連邦を解体した。しかしトウ小平氏は内外の潮流に逆らい、武力によって民意をつぶし一党独裁の社会主義体制を守り抜いた。>
トウ氏は賢しらにこう言ったが、経済を市場経済体制にすれば、経済的に国家に余裕が出来、自ら約束した農業、工業、軍備等の近代化などを促進する事は可能にするが先富論ではまず経済格差が生ずる事は予測できた。
しかしトウ氏も予測できなかった事は官倒(公務員の汚職)多発である。これは経済活動を成長に任せながら、共産党がこれを指導するという矛盾から当然導かれた結論だった。
つまり官僚が経済にとって不必要な規制をかけようとすれば、経済は贈賄によってこれを排除しようとするのが当然で、贈賄は双方の良心を麻痺させ、遂にはケジメを無くさせる。青年時代からマルクス主義の禁欲的倫理観で育った彼には経済犯罪の構造が理解できなかった。
民主化を要求する学生、知識人、党内改革積極派はこうした構造を知っているからこそ、政治も民主化しろという要求を掲げるわけだが、トウ氏ら共産党独裁体制の堅持を強調する党指導部勢力からすれば民主勢力を許す事は毛沢東を否定することであり、断じて許せるものではない。
<(事件より三ヶ月前の)89年3月6日付の毎日新聞朝刊は1面トップで次のように報じた「北京の消息筋は5日、今年2月の春節期間中に上海で最高実力者、トウ小平・中央軍事委員会主席と李先念(りせんねん)・政治協商会議主席が秘密会談し、李主席が趙紫陽総書記の退陣を迫ったことを明らかにした。
李氏は『趙総書記のやっているのは資本主義だ』『陳雲(ちんうん)顧問委主任の考えが正しい』と述べたが、トウ氏は不快感を示したという」
当時の伊藤記者の取材よると、トウ小平氏は李先念氏が「長老の一致した意見」として要求した趙氏の解任に同意せず、「代えるべき適任者がいない」と擁護したという。李氏との意見対立も、趙氏擁護も公表には不適と判断されたと思われる。一度は趙を擁護したのだ。
<トウ氏は、毛沢東晩年の過ちへの「行き過ぎた批判」を戒めている。その理由は「このように偉大な歴史上の人物を否定することはわが国の重要な歴史を否定することを意味し、思想の混乱を生み、政治的不安定を招く」からだ。
それはトウ氏の持論である。毛沢東を否定することは、毛がつくった「共産党の中国」、つまり一党独裁を否定することなのだ。しかし、毛沢東遺制の変革を目指す知識人たちは、批判の矛先をトウ氏にも向けていく。
トウ小平氏は米国籍のノーベル賞受賞者李政道氏との会見でこう話す。「過去二人の総書記(胡耀邦(こようほう)、趙紫陽両氏)を選んだのは間違いではなかった。
しかし彼らは後に4つの基本原則((1)社会主義の道(2)人民民主独裁(3)共産党の指導(4)マルクス・レーニン主義と毛沢東思想)の堅持という根本問題で過ちを犯した。四原則と対立するのはブルジョア自由化だ。私は何年もそのことを言ってきたのに、彼らは実行せず失敗した」>
<2007年の今日、中国人がトウ小平氏を尊敬するのは、改革・開放を推進、国民を毛沢東思想のくびきから解き放ち、豊かさと自由をもたらしたことにある。80年代には、急激な変化が経済や社会に起こり、人びとの意識や思想も欧米志向が強まった。
しかしトウ小平氏はそれが一党体制批判に発展すると、四原則を盾に保守派と手を組み弾圧した。彼が守ろうとしたのは、政治権力から生活上の特権まで、地位に応じて享受するピラミッド型党支配制度=毛沢東遺制にほかならない。
その制度の下で80年代には、官僚の不正や腐敗が急増、「官倒」という官僚と結んだ闇ブローカー行為にトウ氏や趙紫陽氏の子息の関与もうわさされた。
89年4月の胡耀邦氏死去をきっかけに始まった学生運動が、民主化要求とともに「腐敗反対」を掲げたのは、そのためだったが、トウ氏をはじめとする長老や李鵬(りほう)首相ら保守派政治家は党体制の転覆を目指す挑戦と受け止めた。
天安門の悲劇は、趙紫陽氏が学生らを支持した結果、運動が権力闘争に巻き込まれたことにあった。保守派の謀略に、トウ小平氏は利用されたとの見方も少なくない>。
党内保守派により三度も失脚を体験したトウ小平。自分を守りながら四つの近代化を達成するためには保守派を沈黙させる必要がある。
そのためには彼らが拠り所とする死んだ毛沢東を自分も拠り所として批判を逸らし、政治の民主化運動には銃撃を以ってする以外に道はなかった。胡耀邦、趙紫陽はかくて斬られた。
<「今回の動乱(天安門事件の学生運動)では、趙紫陽(ちょうしよう)は自ら(ブルジョア自由化支持の正体)を暴露し、動乱側について党を分裂させた。しかし幸い私がいたので、問題の処理は難しくなかった」(「トウ小平文選」第3巻)>
とはいえ何度考えても胡耀邦や趙紫陽の手法は、経済の市場化に正確に応える合理的ともいえる政治手法であり、致し方のない手法に見える。無理はトウ氏の側にあったと思える。文中< >内はいずれも伊藤記者の文の引用。2007.03.19
482 トウ小平秘録が語るもの 渡部亮次郎

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