492 裏面史・沖縄返還交渉(1) 古沢襄

沖縄返還交渉をめぐる裏面史は、三十数年経って出尽くしたように思うのだが、まだ未解明な部分が残されている。個々の証言はその度に大きな反響を呼んだ。しかし佐藤栄作首相が唱えた「非核三原則」のうち「核を持ち込ませない」は虚構という認識は定着したと思う。また密約の存在も明らかにされた。
それを糾弾するのはいい。しかし糾弾するだけで一過性で終わってはならぬ。それぞれの時代背景から生じた面があるのだから、それを検証して、新しいステップを踏むことがなくては、不毛の論議に終わる可能性が高い。
この問題は三十数年前に戻って沖縄の施政権返還の経過を、それに関わった証言を繋ぎ合わせることが必要ではないか。私は岸内閣から池田内閣、佐藤内閣まで第一線の政治記者だったが、沖縄には直接関わっていない。しかし証言を残したジャーナリストたちは、いずれも身近な人たちであった。多くの方は亡くなっている。
「沖縄返還交渉のスタートは池田内閣の初期に切られ、佐藤内閣にバトンタッチされた」と証言したのは、共同通信社の政治記者・横田球生氏(故人)。1959年4月から宏池会(池田派)担当になり、その後、初代那覇支局長となって沖縄に赴任している。六〇年安保後、岸首相が退陣して池田内閣が誕生した頃のことである。
赴任直前に伊藤昌哉首席秘書官から「日曜日に信濃町の池田邸に来てほしい」と連絡があった。池田首相は①岸内閣は沖縄には冷たかった②官僚からは適切な意見があがってこない・・・と前置きして「池田は沖縄に関して何をなすべきか、何が今可能であるかリポートを上げてもらいたい」と横田に頼んだ。
1960年11月末にリポートが池田に提出されている。主権の象徴である「日の丸」掲揚の自由、経済・財政援助の拡大、教育・社会保障など制度上の本土との一体化、国会に沖縄問題特別委員会の設置など提言は多岐にわたったが、基地問題は沖縄住民の声を列記するにとどまった。リポートは小坂善太郎外相に回付されている。
1961年に渡米した池田はケネデイ大統領との初会談を行ったが、米国防総省の反対があって共同声明で沖縄返還に触れることはなかった。岸・アイク共同声明に盛り込まれた日本側の沖縄返還を希望する表現すら消えたことは、沖縄基地に執着する米側の壁の厚さを思い知らされることとなった。
しかし池田は帰国後、内閣改造を行って小坂外相(留任)、大平官房長官(留任)小平総務長官(新任)、服部官房副長官(新任)という沖縄ポストを腹心の池田派で固めて、日米交渉を再構築している。親日的なライシャワー駐日米大使も着任した。池田は沖縄に対する日本の経済・財政援助を大幅に拡大することによって、沖縄に執着する米側の一角を崩す作戦をとっている。
日本側の意図は現地のキャラウエー高等弁務官が見抜き、日本政府の援助案を一蹴して本国政府に米援助額を年間六百万ドルから二千五百万ドルに要求することになった。キャラウエーは「日本はいわれなく米国を困らせることによって、自らその種子をまいた敗戦による国民の屈辱感を和らげようとしている」と演説している。
ケネデイは沖縄問題が日米間の不協和音となって拡大されることを避けるために1962年3月、沖縄新政策を発表している。内容は沖縄は日本の一部ということを認めたものだが、池田・ケネデイ初会談で後退した内容を岸・アイク共同声明のラインに戻したに過ぎない。ケネデイは「沖縄における日本の主権のもとに復帰せしめることを許す日を待望している」と表明したに過ぎない。
しかし沖縄に対する日本政府の経済・財政援助は徐々に拡大され、キャラウエーの抵抗を受けながらも東京オリンピックがあった1964年には20億円に達した。米援助額を上回ったのは佐藤内閣になってからの1967年だが、この時代は基地問題よりも経済・財政援助で沖縄返還の外濠を埋めるアプローチがとられている。
沖縄を基地のない平和な島として、日本に復帰したいという住民感情にはそぐわないかもしれないが、ベトナム戦争の前夜、台湾海峡の緊張化という米ソ冷戦の最中にあって、池田内閣の果たした役割は評価されていい。

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