京都という土地柄は、戦後、ユニークな政治家を輩出してきた。私の青春時代は二人の京都出身の政治家に密着して、影響を受けることが多かった。権力の頂点を目指すという志向よりも、何か別のものがある政治家たちであった。政界のドロドロとした権謀術策が不得意で、妙に冷めたところがある。
池田元首相の弟分で衆院議長を最後に政界を引退した前尾繁三郎氏は、その一人であった。前尾氏については、私はその想い出を多く書いているので、ここでは触れない。ただ、今もって鮮やかな印象として残っているのは、池田内閣が成立した夜、東京・信濃町の池田邸に現れた前尾氏はしたたかに酔っていた。池田邸の門のところで、右に行き左に戻って玄関口まで入れないでいた。こんな酔っぱらいは初めてみた。
張り番をしていた私は、見るにみかねて前尾氏の手をひいて、玄関口まで連れていった。奥からでてきた首席秘書官の伊藤昌哉氏が「先生!またですか」といって、前尾氏の手をひいて奥座敷に連れていった。振り返りざまに私に片目をつぶってみせた伊藤氏の顔が忘れられない。
どうしようもない酔っぱらいにみえた前尾氏だが、昼間に会うと政界一の読書家で、政治に対するものの見方が優れていた。池田首相がもっとも信頼する相談相手だというのが、だんだんに分かってきた。しかし夕刻になると酒を飲んで”暗闇の牛”になる。不思議な人物であった。
もう一人は民社党の永末英一氏。福岡県生まれだから、厳密な意味では京都の人とは云えないかもしれないが、戦後、京都市議、京都府議を経て、六〇年安保の前年に社会党の参院議員になった。四年後に衆院京都一区から当選している。
私は参院議員当時からの付き合いだが、恰好のいい海軍さんというのが初印象であった。東京大学を卒業後、海軍短期現役主計科士官として、ラバウル航空隊に配属された。巡洋艦「摩耶」の主計長として、レイテ沖海戦に参加して、「摩耶」が撃沈されて、救出されるという”九死に一生”の経験をしている。第二艦隊副官として戦艦大和にも乗艦したこともある。
苛酷な戦争体験から社会党に入り、党内右派の青年将校として盟友の佐々木良作氏と一緒になって活躍したが、民社党の結党に参加して、社会党と袂をわかっている。私の先輩である酒井新二氏も東大法学部出の海軍さん。佐世保とシンガポールを行き来する駆逐艦に乗り組んだ主計大尉だった。
日本海軍の軍艦の大方は沈めれて、海軍さんは丘にあがった河童になったが、酒井さんは四国の基地で、改造魚雷を抱いて特攻攻撃する予科練習生たちの訓練教官になった。幸いなことに出撃前に敗戦となったので、犠牲者を出さずにすんだが、戦後は東京に戻らず佐世保市に近い五島列島の教会で過ごしている。やがて敬虔なカソリック教徒となった。
私たちの一世代前の人たちは、こういう戦争体験をしている。永末氏も厳しい反戦主義者であった。酒を飲みながら、北欧のような福祉国家を造る理想を語っている。六〇年安保の頃である。
民社党内では西尾委員長・曽祢書記長ラインとは違う批判派とみてよいだろう。むしろ古巣の社会党右派・河上丈太郎委員長に近い路線だった気がする。河上派が揃って民社党の結党に加わっていれば、民社党の福祉国家路線が、もう少し力を得たのかもしれない。
私は戦後政治で、ヨーロッパのような社会民主主義政党が育つ可能性があったと思っている。だが社会党左派が主導権を握り、太田・岩井指導路線の総評が日本の革新派をリードしたので、その夢は消えた。
永末氏は春日委員長、佐々木委員長の下で国対委員長を十一年もやっている。リクルート事件で塚本委員長が退陣した後に民社党委員長になったが、中道路線から社公民路線へ転換したことが裏目に出て、一九九〇年総選挙で大敗して三年後に政界を引退した。翌年夏に京都で亡くなった。享年七十六歳。私も来年は、その年齢になる。しかし私の脳裏に残っているのは、若くて元気な元海軍さんの面影しかない。
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