506 浅草は慌てなくていい 渡部亮次郎

浅草(あさくさ)の交通を支配してきた東武鉄道が、隣の墨田区押上 (おしあげ)と業平(なりひら)の間に新東京タワー610メートルを建てて新名所にしようとしている、浅草が見捨てられるのでは無いかと慌てている。
しかし、テレビから見捨てられてもしぶとく外国人を取り込んでいる浅草を見捨てることのできないのが江戸っ子であり、日本人なのでは無いか。生まれて初めて背広上下を父に買ってもらったのは浅草だった。浅草よ永遠なれ!だ。
浅草は、東京都台東区で、戦前は東京随一の繁華街として栄えた。関東大震災と戦災で壊滅的な被害を受けたが、そのたびに目覚ましい復興をとげてきた。
高度経済成長期以降は山手線沿線の新宿、池袋、渋谷などの発展により、東京を代表する繁華街としての地位はこれらの地区に譲ったが、現在も江戸情緒を感じさせる観光地として賑わっている。
最大の失敗が大学の誘致を考えなかったことだ。若者が或る時から居なくなった。
「吾妻鏡」の1181年(養和1年)の条に浅草の名が見える。江戸時代から境内地が広く認められ、明暦の大火(明暦3年=1657年3月2から4日にかけて、当時の江戸の大半を焼失するに至った大火災。振袖火事・丸山火事とも呼ばれる)。
その後、遊郭や芝居町が広く移転してきて仲見世が発展し、見世物小屋などが進出して大娯楽街となる。明治後も映画館や演劇場が繁栄し、昭和初期の浅草オペラをはじめとした大衆文化の中心となっている。
古くから浅草寺(せんそうじ)の門前町として栄えていた。徳川家康が江戸を根拠地として大規模な城下町に改造していくと浅草もその一角を担うようになる。
17世紀には浅草寺の北の「千束」に「新吉原」と称した遊郭である吉原遊郭が移転する。天保の改革の下に行われた水野忠邦の芝居小屋撤去に対し、北町奉行遠山金四郎は浅草猿若町を一門前町に過ぎなかった浅草に移転させ、後の一大繁華街となるきっかけになった。
幕末には、町火消しであり侠客、最後の将軍徳川慶喜に付き従った新門辰五郎が住む。
また、繁華街のことを「奥山(おくやま)」とも言った。これは、浅草寺自体が山号を持つ寺であることや、実際には2~3m程度の高さで周りから見れば高台程度の高さであるが「待乳山」(まつちやま)の上にあることからその奥にあるという意味でもあり、これは現在の繁華街の辺りにも重なる。
明治時代には東京市15区の名前の1つに「浅草」が採用された。また浅草寺を中心とした地域を明治時代に公園化し東京初の都市公園である浅草公園となった。
浅草公園を6つの区に分けたことから、浅草公園六区ともよばれた。なおこの言い方はその中で一番にぎやかだった地域である第6区のみを指すともいう。
明治時代に凌雲閣(通称十二階)などが建てられ、江戸以来の繁華街として新たに演芸場や芝居小屋等が建ち、東京庶民の歓楽街として知られるようになった。
関東大震災以降の興行界は、松竹の進出が本格的となり戦前の昭和においては有楽町に進出した東宝と覇を争った。戦後は松竹歌劇団(SKD)の本拠地である国際劇場やロック座、フランス座などのストリップ興行で賑わった。SKDからは倍賞千恵子さくらが出た。
また、関東大震災後から第2次世界大戦前までに東武線及び地下鉄銀座線が乗り入れた。今は下町らしさを主とした観光地としての側面の方が大きくなってきている。
古くからの浅草地区のランドマークとして浅草寺山門である雷門(らいもん)が知られるが、1990年代以降には吾妻橋対岸のアサヒビール本社ビルもランドマークとして認知されつつある。
調理器具等の飲食店関連の用品を取り扱う合羽橋道具街など特殊な商店街なども存在する。
「寅さん」の渥美清や天才北野武らを輩出した国際劇場やロック座、フランス座などのストリップ興行地。東京中の「丁稚」たちは浅草へあすび(遊び)に行くことを唯一の楽しみにしていたという。その時代をフィルムの記録で見ると、まさに駅のラッシュアワー並みだ。
2007年現在、若い2人連れが数年前から大流行の人力車で「観光」しても、外人観光客がワキガを振りまいても、嘗ての賑わいは無い。テレビにやられたのだ。
日本には昭和28年からテレビと言うものが出来た。当初は45センチ四方の箱からあらゆる娯楽がでてきた。昭和30年代後半になると今まで浅草で無ければ見られなかった映画も落語も漫才も自宅の畳の上で満喫できるようになった。誰も浅草なんかへ行かなくなった。
大学を誘致すべきだったと言う意見がある。若者は残ったろう。しかし土地を確保できる政治家が育ってなかった。大学が無いから立派な病院も無い。女郎の性病検査をした病院ぐらいしかない。そのくせ「天婦羅」「寿司」「蕎麦」の老舗は立派に残っている。
慌てなくても浅草は残る。東京のどことも違う江戸の雰囲気がある以上、浅草は残る。私の墓所も浅草だ。参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2007.04.02

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