515 南部と津軽の不仲 渡部亮次郎

NHK記者の初めのころ、秋田県北部にある大館市に駐在したことがある。旧津軽藩と旧南部藩、秋田藩の中間点のような位置にある。キャバレーホステスは、旧津軽藩の城下町弘前(ひろさき)市方面出身者が殆どだった。
ここには1年しか居なかったが、何かにつけて「相馬大作事件」という言葉を耳にした。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、文政4年(1821年)に参勤交代を終え、江戸から帰国の途についていた弘前藩主の津軽寧親を狙った暗殺未遂事件である。
犯人は、盛岡藩士の下斗米秀之進(しもとまい ひでのしん)。偽名として「相馬大作」と名乗っていた事に事件名が由来する。津軽藩主を殺そうと待っていた場所が大舘市郊外の矢立峠とされている。
裏切った仲間の密告により、寧親の暗殺に失敗した秀之進は藩を出奔するが、後に幕府に捕らえられ、獄門の刑を受ける、とある。
実に恥ずかしいことだが、1年後に盛岡藩(南部藩)の城下町たる盛岡市に転任し4年も滞在したのに、多忙も多忙だったが、相馬大作のことなど、すっかり忘れて今日に至ってしまった。
明治の廃藩置県で津軽と南部の一部が一緒になって「青森県」が出来たが、その後も同県内でありながら対立感情は解消せず、嫁のやり取りさえ皆無と聞かされた。現在はどうかは知らないが。
元々津軽氏(大浦氏)は南部氏の家臣(一族)であったが、初代津軽為信(大浦為信)は南部の後継者選定騒動の最中に1571年独立し、津軽と外ヶ浜地方を支配した。
さらに、津軽為信は小田原征伐の時に豊臣秀吉に認められ所領を安堵された。このような経緯から津軽氏と南部氏は元々犬猿の仲であった。
また、野辺地(のへじ)西方の烏帽子岳(719.6m)周辺の帰属問題で両者がもめた際に、弘前藩は既得権益を積み重ね書類などを整備して幕府と交渉したのに対し、盛岡藩はそれができなかったため、この地域は津軽藩のものとなった。
八甲田山山系を境界とするなら、この地区は盛岡藩の地区になるため、この処置は盛岡藩に不満をもたらした。これを檜山騒動という。岩手県民は、これにより厖大なヒバ(翌檜)林を掠め取られた恨みも相馬大作事件に繋がったと信じられている。(ただ、この騒動は実際には相馬大作事件の107年前の出来事である)。
さらに、1820年南部利敬が39歳の若さで死亡(弘前藩への積年の恨みで死亡したとされる)。南部利用が14歳で藩主となるが、若さゆえに無位無冠であった。
対する津軽寧親はロシアの南下に対応するために北方警備を命じられ、従四位下に叙任された。盛岡藩としては家臣筋と思っていた弘前藩が上の地位にいることが納得できなかった。
秀之進は、寧親に果たし状を送って辞官隠居を勧め、それが聞き入れられないときには「悔辱の怨を報じ申すべく候」と暗殺を伝える。これを無視した津軽寧親を暗殺すべく、秋田藩の白沢村岩抜山(現大館市白沢の国道7号線沿い。物語では矢立峠とされることが多く、物語の記述には沿うが、誤っている地点に立て札もある)付近で花輪の関良助ら門弟4人と大砲や鉄砲で銃撃しようと待ちかまえていたが、仲間の密告によって津軽寧親は日本海沿いの別の道を通って弘前藩に帰還し、暗殺は失敗した。
(物語の多くでは木砲1発を打ち込んだことになっているが、実際には大名行列は現場を通らなかったし、小銃しか秋田藩に持ち込めなかった。また、密告した人は後に津軽藩に仕官することになる)
暗殺の失敗により秀之進は相馬大作と名前を変えて、盛岡藩に迷惑がかからないように、江戸に隠れ住んだ。しかし、幕吏(実は津軽藩用人笠原八郎兵衛)に捕らえられ1822年8月千住小塚原の刑場で獄門の刑に処せられる。享年は34歳であった。
一方、津軽寧親は藩に帰還後体調を崩し、また参勤交代の道筋を許可もなく変更したことを幕府に咎められた。これらを疎ましく思った寧親は数年後、隠居の届けを出し、その後は俳句などで余生を過ごした。
事件から隠居までの期間、南部藩では当主替玉相続作戦などを行っていて、津軽どころではなかった。しかし寧親の隠居により、結果的に秀之進の目的は達成された。
当時の江戸市民はこの事件を赤穂浪士の再来と騒ぎ立てた。事件は講談や小説・映画・漫画の題材として採り上げられ、この事件は「みちのく忠臣蔵」などとも呼ばれるようになる。
民衆は秀之進の暗殺は実は成功していて、津軽藩はそれを隠そうと、隠居ということにしたのではないかと噂した。
この事件は藤田東湖らに強い影響を与えた。当時15~16歳で江戸にいた東湖は相馬大作事件の刺激から、後に『下斗米将真伝』を著した。この本の影響を受けて儒学者の芳野金陵は『相馬大作伝』著した。
これらはさらに吉田松陰に影響を与える。彼は北方視察の際に暗殺未遂現場を訪れ暗殺が成功したか地元住民にたずね、また長歌を詠じて秀之進をたたえた。
吉川弘文館『国史大辞典』の相馬大作に関する評伝は、「武術を学ぶ一方で世界情勢にも精通した人物。単なる忠義立てではなく、真意は国防が急であることから、南部、津軽両家の和親について自覚を促すことにあったらしい」というものであった。ただ、松浦静山は「児戯に類すとも云べし」とこの一件を酷評している。
南部藩の御用人であった黒川主馬等が提唱した忠義の士相馬大作を顕彰事業により、南部家菩提所である金地院境内の黒川家墓域内に供養碑が建立された。
この供養碑には頭脳明せきとなる力があるとの俗信が宣伝され、かつては御利益に預かろうと石塔を砕いてお守りにする人が後を絶たなかったという。
黒川家によれば、同家による補修・建て替えは数度におよび、現在の石塔は何代目かのものである。
妙縁寺(正栄山 妙縁寺=しょうえいざん みょうえんじ=東京都墨田区吾妻橋に所在する日蓮正宗の寺院)には秀之進の首塚がある。また、谷中霊園には招魂碑がある。この招魂碑は歌舞伎の初代市川右団次が、相馬大作を演じて評判を取ったので1882年2月左団次によって建立された。
江戸時代の講談に取りあげられた「相馬大作事件」の種本や刊行物の類は現在は発見されていない。明治17年の改新新聞に連載された『檜垣山名誉碑文』が明治18年に刊行された。
明治21年には講談「檜山麒麟の一声」が講釈師柴田南玉によって演じられ、相馬大作の勇武を持ち上げ人気を博した。『檜山実記・相馬大作』などの演題も、田辺南竜・邑井一・邑井貞吉などの講釈師が演じたという。
福岡(現岩手県二戸市にのへし)の南部藩士の二男に生まれた秀之進だったことを裏付けるように岩手県北部出身者には下斗米(しもとまい)姓が多く、一族意識を誇っている。出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2007・04・11

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