517 北軍部の本命・金永春が登場 古沢襄

「先軍政治」を掲げる北朝鮮で、金正日側近の金永春(キム・ヨンチュン)朝鮮人民軍総参謀長が実権を掌握したとみてよいのではないか。これまでは金正日に次ぐ実質ナンバー2は、明録政治局長・国防委員会第一副委員長といわれてきた。しかし趙明録は八十五歳の高齢なうえ病気がちだったので、昨年九月以来、北朝鮮人民軍内部で権力抗争の噂も出ていた。
北朝鮮の権力構造は一九九八年九月の最高人民会議以降「先軍政治」の国家目標が決まり、共和国国防委員会が政治、経済、軍事を領導する方針が決定している。十人のメンバーからなる国防委員会は、単に国防を担当するだけの機関ではなく、北朝鮮の憲法上の最高指導機関となった。
金正日国防委員長をトップにして趙明録が第一副委員長、その下に二人の副委員長が置かれたが、この四人が、北朝鮮のすべての実権を握っているといってもよい。世上、金永南・最高人民会議常任委員長が北朝鮮のナンバー2といわれているが、金永南には権力の実態を伴っていない。
言葉を変えれば、金正日が力を失って”お飾り”の存在になったか、どうかは、他の三人の第一副委員長と副委員長の顔ぶれをみれば、ある程度まで類推できる。趙明録が高齢なことから、第一副委員長になる人物によっては、金正日の軍部掌握度にまで影響する。
国防委員会は、これまで金正日・趙明録の体制は変わらなかった。趙明録は金正日の後ろ盾であった。だが副委員長は一九九八年以降、かなり変わってきた。発足当時は金鎰喆人民武力相、李勇武次帥の二人が副委員長、いずれも抗日パルチザン世代。その次の序列が金永春であった。ナンバー5という地位にある。
金永春は一九三二年生まれ(一説には一九三六年生まれ)だから七十歳台半ば、決して若い世代ではない。一九九五年に人民軍総参謀長になり、次帥。一九九七年に平壌で行われた軍事パレードでは、閲兵指揮官となり、メリハリのきいた演説をしている。趙明録とともに金正日にもっとも近い人物とみられ、ロシア・モイセーエフ国立アカデミー民俗舞踊団の公演では、金正日と並んで鑑賞する姿が目撃されている。
金正日国防委員長を除けば、ナンバー2からナンバー5までは、すべて軍人なのだが、ナンバー6に初めて文官が登場していた。延享黙・慈江道党責任書記で、政務院総理(首相)から慈江道党責任書記に転出した時には、日本のマスコミは降格人事と報じている。
慈江道は中国と国境を接する山岳地帯だが、北朝鮮にとっては軍事上の要衝となっている。ミサイルの実戦発射基地が集中しているほか、軍需生産の70%を担う江界(カンゲ)市工場地帯がある。降格どころか、この要衝を固める目玉人事であった。
二〇〇三年の国防委員会の人事で、金鎰喆は副委員長から降格されて、平(ひら)の委員になった。代わって副委員長に昇格したのはナンバー6の廷享黙で、ナンバー5に金永春ではなかった。二〇〇五年に延亨黙は死去しているが、副委員長は李勇武一人のままにされた。謎の多い人事で、金正日の支配力にかげりが見えたと疑問すら持たれている。
韓国の情報筋は、金正日を支えてきた抗日パルチザン世代が後退して、新しい軍部の若手軍人が台頭してきたと分析していた。これらの若手軍人と金永春の関係が定かでない。金永春は抗日パルチザンではないが、その世代の庇護を得て軍部における地位を固めてきている。強硬派とみてよいだろう。
二〇〇七年の国防委員会の人事では、金永春副委員長がようやく実現している。趙明録、李勇武、金永春のトロイカ体制だが、趙明録と李勇武がすでに高齢なことから、金永春の相対的な地位が高くなったといえるのではないか。軍部内部の権力抗争も押さえ込んだのではないかと思える。メデイアの記事は、簡単に国防委員会の人事を伝えただけである。情報鎖国の国だからよく分からないというのが、正直なところではないか。
【北京11日共同】朝鮮中央通信によると、北朝鮮の国会にあたる最高人民会議の第十一期第五回会議が十一日、平壌の万寿台議事堂で開かれ、朴奉珠首相を更迭、後任に金英逸陸海運相を選出した。また、国防委員会委員の金永春軍総参謀長が同委員会副委員長に昇格した。
【ラヂオプレス(RP)東京】11日の朝鮮中央放送と平壌放送などの報道として伝えたところによると、北朝鮮の最高人民会議(国会)第11期第5回会議が平壌の万寿台議事堂で開かれ軍参謀総長の金永春(キム・ヨンチュン)国防委員会委員が同副委員長に昇格した。
【ソウル=読売・福島恭二】朝鮮中央通信によると、北朝鮮の国会にあたる最高人民会議第11期第5回会議が11日、平壌の万寿台議事堂で開かれ、延亨黙(ヨン・ヒョンムク)氏の死亡で空席になっていた国防委員会副委員長に、金永春(キム・ヨンチュン)軍総参謀長(国防委員会委員)を選出した。

コメント

タイトルとURLをコピーしました