沢内三千石(さんぜんごく)お米(よね)の出どこ
枡(ます)ではからないで箕(身)ではかる
このよく知られた「沢内甚句」の歌詞の、お米はおよね、箕は身であるとされる解釈が有名で、凶作にかかわる村の娘「およね」の悲哀の物語が隠れている。
岩手には20代の頃、4年も在勤した。記者仲間に沢内村に縁のある人が居て、酔えば「沢内甚句」を歌った。だが「およね」と言うべきところを「お米(こめ)」と歌った。私も耳を素通りにした。
<天保の飢饉 てんぽうのききん 1833~36年(天保4~7)の全国的な飢饉。享保の飢饉・天明の飢饉とならぶ江戸時代の三大飢饉のひとつ。33年の大洪水と冷害で、東北地方の収穫量は例年の約3割、関東でも約7割となり、餓死者も出た。
不作の年はさらにつづき、36年には冷害とたび重なる暴風雨のため九州や四国をのぞく地域で大凶作となり、収穫量は全国平均で約4割にまでおちこんだ。このため翌37年にかけて大飢饉の状態になり、一説では全国の餓死者・病死者は20~30万人におよんだといわれる。
東北各地の窮民の間に、生まれたばかりの赤ん坊を殺す間引きや捨て子があいつぎ、農地をすてて都市部に流入し、行きだおれる者も多かった>。
今の秋田市でも「通町橋から6丁目橋の下まで、橋の下は集まった浮浪者で一杯となった。死人をムシロに包んで背負いながら歩く者、橋の下で子を産む母親、親子兄弟に死に別れ、悲しんでいる者、途中で子供を捨ててたどり着いた親など様々であった。
通町橋など午前10時ころになると、200人以上もの浮浪者が橋の両側に立ち並んで物乞いをし、通行もままならないほどであり、夜などは物騒で外出できない状態であったという。
天保4年、秋田藩の人口はおよそ40万人、うち死者が10万人出たとの説もある。天明、天保の大飢饉によって百姓一揆は急増していった。
インターネットに「沢内三千石」と打ち込むと、どなたか書き手は分らないが、大変な物語が出てきた。沢内村は私が盛岡に赴任した頃は乳幼児の死亡率全国ワースト1からいきなりベスト1に村長のお陰でなった村として有名でもあり、取材に通ったものだ。
近年の町村合併の波に乗り湯田町と合併して和賀郡西和賀町沢内と変わった。
「沢内年代記」によると、天保の大飢饉のときの凶作は甚大で、生活は窮乏を極めた凄まじいものだったと伝えられている。ホシナ(大根葉の乾燥したもの)と根花(ワラビのでんぷん)で命をつないだ者はまだ良い方で、わらを食べ、雪解けを待って草の根を掘って食べるという悲惨なものだった。
研究者によると天保4年の飢饉で沢内村からは奥羽山脈を越えて秋田側に何百人の人が救いを求めて到達したが、皮肉にも流行していた疫痢のため110人余が死亡したとの記録があるそうだ。
天保の大飢饉(てんぽうのだいききん)とは、江戸時代後期の天保4年(1833年)に始まり、35年から37年にかけて最大規模化した飢饉。天保10年(1839年)まで続いた。天保7年(1836年)までと定義する説もある。
寛永・享保・天明に続く江戸4大飢饉の1つで、寛永の飢饉を除いた江戸3大飢饉の1つ。単に天保の飢饉とも。
東日本では陸奥国(岩手)・出羽国(秋田)の被害が最も大きく、その主な原因は洪水や冷害だった。推測ではいわゆる「やませ」が吹いたのではないか。夏にオホーツク海上空の冷たい風が北東の風となって東北地方を襲うから稲はひとたまりもなく立ち枯れとなる。収穫ゼロ。
各地で餓死者を多数出し、徳川幕府は救済のため、江戸では市中21ヶ所に御救小屋(5800人収容)を設置したが、救済者は70万人を越えた。米価急騰も起きたため、各地で百姓一揆や打ちこわしが頻発。37年2月に大坂で起こった大塩平八郎の乱の原因にもなった。
また、田原藩(愛知県)では、家老の渡辺崋山が師であった佐藤信淵の思想を基にした「凶荒心得書」を著して藩主に提出し、役人の綱紀粛正と倹約、民衆の救済を最優先とすべき事を説いて実行して成果をあげた。
岩波書店の「日本文化総合年表」第1刷(1990年3月8日)によると天保4年(1833)に「冬、奥羽飢饉、米価騰貴」とだけある。奥羽とは現在の東北地方である。
次に天保7年「この年、全国飢飢饉、奥羽地地方が最も甚だしく死者70万人に及ぶ(天保の大飢饉)」とある。
鳥取藩では「申年がしん」として、この飢饉の悲惨さが伝説となって近年まで語り継がれていた。岩手県沢内村(現西和賀町)には「およね伝説」が伝わっている。
<飢饉のため、お倉米(税)を納めることができなかったのは言うまでもないことですが、それにもかかわらず殿様からは上納の厳しいお達しがたびたびあって、沢内通りの名主たちは、いかにしてこの苦難から逃れようかと日々相談に明け暮れ、納米の減額や免除を嘆願したのでした。
そんな中、あるときの集まりに、当時沢内通りに駐在していた代官が、次のように言ったのでした。
「近年のケカジ(凶作)続きは沢内通りばかりでなく、奥州から関東にかけての大飢饉なのだから、なかなか免除の許しなどは出ないことである。当藩内のことではないが、農民たちは殿様に誠意を示すために、娘を上げ申したということがある」
何か暗示を与えるようなことを聞かされて、一同は帰りました。
やがて11月に入り、その年も俵探しの役人がお米のありそうなところを回って調べました。見つかれば強制的に没収されてしまいます。困っている人たちに分けてやる余裕もありませんでした。
冬を迎えてさらに生活は厳しくなり、名主たちも、納米の督促どころか、自分の郷の餓死者を防ぐために懸命なのでした。
しかし代官所からの厳しい通達に困り果てた名主たちは、ついに最後の相談をすることとなり、そして、代官が言った娘を差し上げることのほかないという結論に達したのでありました。
「背に腹は代えられない。この方法よりほかに道がないとすれば、沢内通りの農民を救うために一つ代官様にお伺いをしてみようではないか」
そして新町の代官所を訪れて、結果交渉はうまくいき、ほっと胸をなでおろしたのですが、名主たちは、次に、その殿様に上げ申す娘は何処にあるだろうかと真剣に考え探すことになりました。
「代官所の近くであれば、なじな者でもあるべし、都合もいかべなァ」
「んにゃ、えおなごというのは上の方にかぐれだどごにいると思うんでごァし」
この頃、沢内通りは太田を中心に2分しており、南北に分けて探すことにしましたが、結局その娘というのは、どうしても北部からであるという結論に達したのでした。
度重なる集まりの末、川舟村に候補者が2、3人あるということにしぼられて、貝沢、新山、川舟の三部落から1人ずつ見つけようということとなります。
さて、郷の同心2人が新山を回り、話を聞いていたとき。橋を渡ってすぐの家の爺が言うには、「こごえら(この辺)でだら、吉右ェ門どこの娘っこよりえおなごァねァがべなし」、と。
これを聞いて2人の目は光りました。挨拶もそこそこにしてこの家を飛び出していきました。
吉右ェ門の家は旧家で、六十余年前、田掻き馬が狂乱し、岩手山麓で立ち往生して蒼前様に祀られたという伝説のある家でありました。
同心が急ぎこの家を訪れると、年の頃16、7かと思われる、背の高い面長の美しい娘が挨拶に出てきました。2人はしばらく休んでいる間に、この娘の立ち居や動作にすっかり惚れ込んだのでしたが、突然に件の話も言い出せず、ひとまず帰ったのでした。
名主たちの集まりに報告がなされ、正式に吉右ェ門の家に交渉することになりました。
何の不自由もない総本家のの娘が殿様に上げられるという話が伝わると、遠方の分家や親戚などから猛烈な反対の火の手が上がりました。
もちろん、本人も両親も容易に首を縦に振らなかったのは無理もないこと。仮令どんな理屈を付けようとも、年貢米の代わりになる人質にほかならないのです。
連日矢のように攻められ、連日連夜にわたり相談は続けられ、その娘、およねもまた悩み、考えるのでした。
冬が過ぎて春の彼岸の中日のこと。
「殿様に仕えるごどはありがでえが、お倉米の代わりなど人身供養だから、本家の大恥だ。だれァ何たって承知こがね」
「それも考え方だ。おら本家の娘こァ沢内を救ったとなれば、分家の爺だって肩身広く道路あるぐごとにもなるべ」
そんなやりとりを聞いていたおよねは、元気に満ちた、そして晴れ晴れとした声で言い出したのでした。
「おらァ思い切ったでァ。えぐ(行く)気になった。人ァ一度ァ死ぬんだォなに」
誰一人、何も言える者はいませんでした。大きないろりには薪がどんどん燃えて、車座に座っている人たちの顔を照らしていました。彼岸の頃のかくしの吹雪が時々窓に吹きつける音のみで、深夜のいろり端には、咳一つする者はなかった。
かしき座の隅に座っていたおよねの母のかすかなすすり泣きの声が、人々の胸を強く痛めるのでありました。
軒を埋めた雪が次第に消え去ると、沢内には急に春が訪れるのでした。屋根吹き替えの手伝いに集う男たちの間でもおよねの噂で持ちきりです。
村の困窮を救う女傑と誉める者、同情と義憤の気持ちで慰める者など、いずれこの狭い沢内から殿様のお城に上るという開びゃく以来の出来事だけに、村の話題を総ざらいに75日間続くのでありました。
そんな噂をよそに、吉右ェ門の家では娘の出発が近づくにつれ、仕事も手につかない毎日を送っていました。
田打ちが始まった頃のある夜、新山には村中の人が集まって、感謝の酒宴で大騒ぎでした。いまさらながらおよねの美しさを口々に褒めそやしていました。
座敷では飲めや歌え、そして沢内甚句を歌い始めるのでした。およねは一人、家の西にある檜の古木の下に立ち、蛙の鳴き声を聞きながら、懐かしい友だちのことを思い浮かべていました。自分の行く末に不安な気持ちは頭から離れることはありませんでした。
とやかくするうちに、その日はやってきました。お嫁さんのような髪、着たこともない矢絣の袷、黒朱子の帯をしめて正装したおよねの姿は高貴で、微塵も田舎娘などではありませんでした。多くの村人たちに見送られて、およねは住み慣れた家を、そして村を後にしたのでした。
「んだらえってくる」
それだけの言葉を残して・・・
弱い女の身で一村を救うけなげなおよねは、こうして寂しげな微笑を一同に見せながら、悄然と出かけるのでありました>。
~高橋善二『沢内の民話』(沢内村教育委員会)より抄録
http://ouu-yamazato.com/tales_oyone.html
太田地区の浄円寺には人身御供(ひとみごくう)になったという悲話をつたえる「およね地蔵」がある。シベリア抑留のまま果てた作家古澤元(古澤襄氏の父)、外交官平沢和重、雪研究家高橋喜平の故郷である。沢内は雪椿の北限としても知られる。
参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』及びMicrosoft(R) Encarta(R) 2006. (C) 1993-2005 Microsoft Corporation. All rights reserved. 2007・04・18
524 沢内三千石お米の出どこ 渡部亮次郎

コメント
およね・・・・お米・・・・
心を洗れるようなお話をありがとうございます。このようなお話を「かたりべ」の人たちや、民話作家などが残していただくとなによりと思ったのですが・・・・
とにかく、日本がまずやらねばならないことは、民族の伝統を残すことではないでしょうか・・・・私の名前は、先の大戦インパール作戦で旧ビルマ方面戦死(病死か戦死か何も残っていないので定かではありませんが)与作おじさんの名前をもらっています。私が生まれたときには、周りが『生まれ変わり」として喜んだと聞きます。インパール作戦で検索すると・・・・たくさんの手記の中から、『黒田隊長」なる言葉がでてきました・・・・おもわず、ノメリこんだものです。
インターネットでブログが可能な時代です。
このカジカ文庫ブログは、古澤様の心意気・・・・志の高さゆえの内容となっているので・・・しっかりと読ませていただいております。感謝、