興味があって椎名悦三郎(故人)と言う政治家の事績を調べているのだが、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』が指摘している事の一部は確認できなかった。
<外相時代は、戦前の朝鮮支配に関して野党から「深く反省しているとはどういう意味か」と問われ「シミジミ反省している、という意味でございます」と答弁したことや、日米安保条約上のアメリカ軍の存在意義を問われて「米軍は日本の番犬です」と答弁し、驚いた質問者が「米国を番犬とは何事か」と難詰すると、平気な顔をして「失礼しました。それでは、番犬サマです」ととぼけた答弁をしたことで知られる。これだけ聞くと問題発言のようにも聞こえるが、全体を通して聞けばそれほど問題発言ではない(第51回国会(1966年3月)の議事録)>。
特に、平気な顔をして「失礼しました。それでは、番犬サマです」ととぼけた答弁をしたことにはなっていないのである。第51回国会(1966年3月)の議事録とは昭和41(1966)年3月18日(金)午前10時すぎから開かれた衆議院外務委員会でのことである。
○椎名国務大臣(外務大臣) 核兵器のおかげで日本が万一にも繁盛しておりますというような、朝晩お灯明をあげて拝むというような気持では私はないと思う。ただ外部の圧力があった場合にこれを排撃するという、いわば番犬――と言っちゃ少し言い過ぎかもしれぬけれども、そういうようなものでありまして、日本の生きる道はおのずから崇高なものがあって、そしてみずからは核開発をしない。そして日本の政治の目標としては、人類の良識に訴えて共存共栄の道を歩むという姿勢でございます。
ただ、たまたま不量見の者があって、危害を加えるという場合にはこれを排撃する、こういうための番犬と言ってもいいかもしれません、番犬様ということのほうが。そういう性質のものであって、何もそれを日本の国民の一つの目標として朝夕拝んで暮らすというような、そんな不量見なことは考えておらないのであります。
○岡良一委員(日本社会党) しかし大臣の先ほど来言われたことは、核兵器を神の座につけると言ったのに対しあなたはお灯明と言われたが、核兵器に日本の安全を依存せざるを得ないということを認められておる。したがって、依存しておる、こういうことだけは間違いはないのでしょう。
○椎名国務大臣 遺憾ながら現実の世界においては依存せざるを得ない、こういうことであります。
<驚いた質問者が「米国を番犬とは何事か」と難詰すると、平気な顔をして「失礼しました。それでは、番犬サマです」ととぼけた答弁>したというから議事録を最後まで再三通読したが、遂に発見できなかった。いずれにせよ伝説は作られて行くもののようだ。
横道ながら質問に立った岡良一氏とは石川1区(当時)選出のお医者さんだった。たしか作家五木寛之さんの岳父だったはずだ。医者を開業しながら金沢市会議員、県会議員をへて衆院議員になった。一度の落選を経験したが6回当選した。
椎名の父の後藤広は、小学校の教師から岩手県水沢町(当時)の助役を経て、岩手県議会議員となり、更に水沢町長を10年間務めた。悦三郎は錦城中学(現・錦城高等学校)、旧制二高卒業後、東京帝国大学入学。
同時に後藤新平の姉の婚家である椎名家に養子入りする。椎名家は、蘭学者の高野長英(幼名、悦三郎)の血筋にあたった。ウィキペディアの後藤新平の項目では椎名が血の繋がった叔父のように書いているが、ここでは血は繋がっては居ない。
東大卒業後、1923年に農商務省に入省。農商務省が農林省と商工省に分離した後は、商工省に移り、岸信介の下、満州国統制科長、産業部鉱工司長を歴任する。
日本に戻り、商工省産業合理局長、商工次官、軍需省陸軍司政長官兼総動員局長として戦時下物資が窮乏する中、物資統制、調整に数々の実績を上げた。商工大臣・軍需次官であった岸信介を支え「金の岸、いぶし銀の椎名」と称された。1945年、終戦と共に退官する。
岸信介の誘いで、1955年の第27回衆議院議員総選挙に日本民主党公認で立候補し当選する。当選1回ながらも商工省出身で産業界に人脈があることを評価されて経理局長に就任する。
出身地の岩手二区(当時)からの初出馬、初当選だったわけだが、大変な買収選挙を展開したと見られ、総括責任者が何年か後まで逃走し、私が岩手に在任中にとうとう逮捕され、関連して椎名夫人も逮捕された。
NHK水沢通信部の記者が其処をフィルムで撮影したところ、夫人が記者にツバをかけた、とその記者が私に語った。選挙とはそういうもので、代議士の代わりに家族や周辺が犠牲になる。
当選二回で岸内閣の官房長官に就任。内閣のスポークスマンであったが、記者会見では細かいことは総理に聞いてくれとおとぼけを発揮する一方で日米安保条約改定で岸を支えた。
岸退陣後、岸派は分裂。椎名は福田赳夫が徹底的に嫌いだったから、川島正次郎、赤城宗徳らと行動を共にした。「赤城・川島派」の一員だった。
選挙区の岩手で自民党県連会長を引き受けたのはこの頃で、私は県政記者クラブの一員として一杯ご馳走になったことがある。宴たけなわとなって、やおら踊りだした踊りが野糞踊りだったので、度肝を抜かれた。それから間もなく私は東京へ転勤し、政治記者となった。
椎名の人となりは、ものぐさとして知られる一方でカミソリともいわれるものであった。座右の銘は「菜根譚」の中から「不如省事(事を省くにしかず)」を見つけた「省事」。
物事を処理する時は、些細で煩雑なことはなるべく切り捨てて、根幹を成す部分を簡単明瞭に掴むことが大切である、枝葉末節にこだわり大切な根本をおろそかにしないということを人生訓とした。
自身が語ったところでは役人時代は、決裁の印鑑を部下に預けていたそうである。それで居て「いぶし銀の椎名」と呼ばれた事は、判断が的確で部下の厚い信頼を勝ち得ていたことを物語る。
池田内閣で、自民党政務調査会長、通商産業大臣、1964年には池田内閣最後の組閣で畑違いの外務大臣に就任した。その時、マスコミからは奇想天外人事と評された。本人も「何でこんな人事を考えやがったんだ」と難色を示していた。
しかしこの人事は、韓国との国交正常化の困難を予知した前尾繁三郎幹事長の強い推薦によるものであったとされる。
佐藤内閣でも外相再任となり、日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約)の締結に向けて韓国側と交渉。さらに批准をめぐる「日韓国会」で政府を代表し答弁に立ち「名外相」と言われる。
日韓基本条約の締結問題については池田内閣当時から実力者河野一郎が担当大臣をしており、元秘書だった宇野宗佑代議士(のちに総理)が黒子となってしばしば渡韓し実際の交渉に当っていた。
私はその結果を河野から聞きだし、NHKで外務省を担当していた島桂次(のちに会長)に報告すると大変喜ばれた。
日韓基本条約の批准国会では私が衆院本会議番だった。自民党を指揮する幹事長は田中角栄。幹事長、採決は何時やるんですか、あなたは昨日は今日やるといったでしょう。キミ、昨日の話を今日しちゃいかんよ。東大出の幹事長番は秀才記者だけにノイローゼになった。
1972年7月、田中内閣が発足し、椎名は同年8月に自民党副総裁に就任した。しかし、田中内閣は、経済政策に失敗したことと金脈問題のため退陣を余儀なくされる。
田中の後継をめぐり、椎名は大平正芳、福田赳夫といった大派閥の領袖ではなく、少数派閥の三木武夫を新総裁に選出した(椎名裁定)。この裁定は三木自身が「青天の霹靂だ」と語ったように驚きをもってむかえられた。
しかし私は三木自身が青天の霹靂だとは実は思っていなかったはずだと思う。田中が後継者に椎名を推そうと考えて居ることを知った元総理佐藤栄作が田中を諭し、引退後、自分が金銭的に世話になっている親戚筋からの要請で早くから三木を推薦していたフシがる。
椎名は三木内閣でも副総裁に留任。更に「三賢人の会」の一人である灘尾弘吉を党総務会長に推挽し、三木内閣を通じて党改革に取り組もうとするが、1975年(昭和50年)4月には早くも三木との間に党改革・近代化をめぐり亀裂が生じる。
ロッキード事件や独占禁止法改正、党内改革をめぐり、椎名の三木首相への不満は嵩じ、「三木おろし」へと繋がっていく。1976年(昭和51年)椎名は田中、福田、大平と三木退陣で一致し、8月24日挙党体制確立協議会(挙党協)を結成。
三木は9月に内閣改造、党役員改選を経て12月5日の任期満了にともなう第34回衆議院議員総選挙で敗北し退陣を余儀なくされた。後継は密約により、椎名が一番嫌いな福田赳夫になってしまった。それから2年後の1979年(昭和54年)9月30日死去。享年81。
<椎名 素夫さん(しいな・もとお=元参院議員)が2007年3月16日、肺炎で死去、76歳。葬儀は近親者で済ませた。近く関係者で「偲(しの)ぶ会」を行う予定。喪主は妻秀子さん。自宅は公表していない。
自民党副総裁を務めた故椎名悦三郎元外相の次男。1979年に衆院旧岩手二区から立候補し初当選。4期務めた。1992年参院選でくら替え当選。その後、同党を離れて「無所属の会」を結成、代表に就任した。知米派の論客として知られ、03年に日本人として初めて米国務長官特別功労賞を受賞した。>Asahi Com 3月23日。文中敬称略 2007・04・20 参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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