527 虞美人草の伝説 古沢襄

虞美人草(ぐびじんそう)・・・ヒナゲシの別名で、夏目漱石の小説の題名としても知られるが、私は司馬遼太郎の小説「項羽と劉邦」にでてくる項羽の愛人・虞姫にまつわる虞美人草の物語に心惹かれる。
歴史年表をみると項羽が生きたのは紀元前232年から紀元前202年。日本はまだ縄文の闇の中にあった。項羽も劉邦も楚人だったという。司馬遼太郎の旅行記に「中国・江南のみち」がある。
長江沿岸で稲作社会を発展させた楚人が、中原の漢民族一般の論理的性格とはちがい、激越で怨みっぽく、情念が屈折し、修辞が華麗で屈折し、さらには復讐心もつよいという印象を史書のなかでうかがうことができる・・・と司馬遼太郎はいう。
さらには、近代になっても楚の故地である湖南省の人は、その性格が激しいとよくいわれる。革命家のなかで湖南省出身が多いのだが、毛沢東などはその代表的人物であろう。湖錦濤も江南の江蘇省の生まれである。
支那史の中で江南は異国の扱いをうけてきた。古代支那では漢民族が住む中原こそが中心であって、背が低くタイなど南方系の血脈である楚人は、たとえば秦帝国からみれば、楚人は辺境の蛮族に過ぎない。楚人のことを漢人は”荊蛮”と称して卑しんだ。
だがこの辺境こそ支那大陸の中で、もっとも豊かな稔りに恵まれた米作地帯であった。これに対して中原は麦・粟地帯。現代の日本人をDNA鑑定すると、北方系のブリヤート人と一致するものが多いが、次いで中国の江南の人と一致するものがでるという。
九州の人のDNAは中国南部に近いというが、陽気で熱しやすい性格は楚人と似ている。楚人は戦に強かったが、戦時中の九州の師団は勇猛さで知られている。現在でも防衛大学校の進学率は九州が圧倒的に多いのではなかろうか。
項羽は楚人の中でも、ひときわ目立つ楚人であった。楚人らしかぬ背が高い威丈夫だったから、項羽が楚軍をひきいると軍勢は奮い立ち、無類の強さを発揮した。敵には容赦せぬ残酷さをみせるが、味方には尽きせぬ情愛をみせる。
その項羽が生涯に愛した美姫が虞美人。北方の斉(せい)との戦いに向かう路傍でうずくまっていた少女の瞳が空の色のように青かったという。今の山東省あたりだが、項羽は「胡女か」と訊ねた。
胡女かとは胡人の娘かという意味。”胡”は支那では異民族の総称である。荊蛮の項羽が虞姫を胡女かと聞く可笑しさがあるが、瞳の青さから西域人を想像したのかもしれない。この時代には、胡とは匈奴を指しているから、むしろ古代トルコ民族のエキゾチックな風貌が項羽の心を捕らえたともいえる。虞姫は十四歳。
項羽には正室がいない。戦に明け暮れていたから戦に連れ添った虞姫しか愛さなかった。「垓下の戦い」で常勝将軍だった項羽は劉邦の策の前に敗れるのだが、死を覚悟した項羽は、別れの宴で「力は山を抜き 気は世を覆う 時に利あらずして 騅(愛馬)逝かず 騅逝かざるを奈何すべき 虞や虞や若(なんじ)を奈何せん」とうたいおさめた。(力拔山兮氣蓋世,時不利兮騅不逝.騅不逝兮可奈何,虞兮虞兮奈若何!)
この詩には「兮(けい)」という間投詞が刻み込まれている。項羽は「兮」と言葉を発しながら、虞姫をこの世に残して最期の出陣をせねばならぬ”恨み”を「虞兮虞兮奈若何!」でうたった。
項羽のうたいおさめが終わると、虞姫は剣をとって舞い、舞いつつ項羽の即興詩を繰り返し歌って応えた。司馬遼太郎は「虞姫が舞いおさめると項羽は虞姫を刺し、一陣のつむじ風となって敵軍の中に突っ込んだ」としている。別に、北宋代からは虞姫の自刃説も伝わっている。
虞姫は葬られたが、翌夏、墓に赤い花が咲いた。虞美人草の伝説が、ここから始まっている。

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