532 強硬派が主導権を握った北朝鮮軍部 古沢襄

北朝鮮が国際社会の仲間入りするためには、おどろおどろしい「先軍政治」の看板を下ろして、対話が成り立つ外交重視の姿勢を示すべきであろう。核保有やミサイルに依存する威嚇外交は、あまりにも19世紀的である。軍事が最優先で外交や内政が追随する国家体制は健全なものとはいえない。
だが平壌の金日成広場で行われた朝鮮人民軍の創建75周年の閲兵式に金正日国防委員長が久しぶりに姿をみせたが、「先軍政治」を掲げる北朝鮮の中で軍部の急進強硬派がさらに強くなったと思わざるを得ない。
北朝鮮の軍部情勢については韓国筋の情報に頼らざるを得ない面があるが、これまで急進強硬派と目されてきたのは、総政治局長趙明録次帥、総参謀長金英春次帥、作戦局長金河奎大将、総政治局組織副局長玄哲海大将といわれてきた。金英春次帥の後任総参謀長になった金格植大将も急進強硬派とみられる。
金格植大将は西部戦線を担当する第二軍団長だったが、野戦軍司令官から軍総参謀長に抜擢された人事は極めて異例といえる。
一方、保守派と目されてきたのは第一副部長金鎰喆次帥、副部長呉龍訪大将、第五軍団長金明国大将、総政治局宣伝副局長朴在京大将、第三軍団長チャン・ソンウ大将らとされている。軍事国家の北朝鮮で保守派というのも奇異な感じを与えるが、軍・党・官僚組織が一体化した支配体制を目論むグループと解釈すべきであろう。
この路線上の対立は、金日成死去後の金正日への権力移行過程でみられた。古くは金日成が抗日パルチザン時代からの盟友だった呉振宇元帥のグループと生粋の空軍出身である呉克烈次帥のグループの権力抗争があった。朝鮮人民軍の近代化と改革を唱えた呉克烈派はソ連との軍事協力を唱え、金正日はむしろ呉克烈派寄りだったといわれる。
しかし一九八八年二月に呉克烈次帥は人民軍総参謀長を解任され、政治局委員の座を失っている。急進的な軍改革路線に反発した呉振宇派が①軍に対する労働党の領導を弱体化させた②ソ連からの軍事援助と協力に依存し過ぎている・・・として呉克烈派の一掃を図った。
金正日の権力基盤が固まっていない時代だったので、呉克烈次帥のグループだった偵察局長チャン・ソンウ中将、作戦局長金英春中将、参謀政治部長チョン・ヨンス中将、副総参謀長李ドンチュン中将、アン・ユンチャン中将ら高級将校が降級されるか、軍服を脱がされ除隊に追い込まれている。
一九九八年九月の最高人民会議で、共和国国防委員会が北朝鮮の政治、経済、軍事を領導する方針を決定し、金正日国防委員長が共和国元帥として「先軍政治」の国家目標を決めたのは、この抗争劇に終止符を打った事件といえる。それは旧呉克烈派が一斉に復活したからである。
新たな指導体制は金正日国防委員長をトップにして趙明録次帥が第一副委員長。その下に金鎰喆次帥(人民武力相)、李勇武次帥の二人が副委員長になった。趙明録次帥は金日成から金正日擁立へ権力移行過程で最大の功労者と目され、人民軍総政治局長として軍と党の目付役となった。軍のトップであるべき人民武力相よりも上位の地位を占めた点が注目された。
金鎰喆次帥は保守派だが、軍部内のバランスをとった人事といえよう。しかし二〇〇三年の国防委員会の人事で、金鎰喆次帥は副委員長から降格されて、平(ひら)の委員になった。
この時点で共和国国防委員会のナンバー5だった金永春次帥(総参謀長)が、急進強硬派のホープとして副委員長に昇格するとみられたが、文官でナンバー6の廷享黙慈江道党責任書記が副委員長に昇格している。二〇〇五年に延亨黙副委員長は死去したが、副委員長職の補充人事は行われなかった。やはり保守派に配慮したのではないかと思われる。
その意味で二〇〇七年人事で金永春次帥が副委員長になったのは、単に金正日側近の登用とばかりは言い切れない。金永春次帥の後任となる総参謀長に野戦軍司令官だった金格植大将を持ってきたのは、異例の人事だが急進強硬派とみるべきであろう。
もうひとつ注目すべき点は、軍と党の目付役である趙明録第一副委員長の健康不安説が出ていることである。韓国筋の情報では、八十五歳の高齢となった趙明録第一副委員長は大腸と腎臓病で入院しているという。一部には死亡説もある。金永春次帥の副委員長昇格、金格植大将の総参謀長起用は、趙明録第一副委員長の健康不安説と関連しているとみるのが妥当であろう。いずれにしても北朝鮮軍部は強硬派が主導権を握ったとみた方がいい。懸念すべき材料といえる。

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