538 早坂茂三氏のニューヨク事務所 古沢襄

引き出しを整理していたら古いパスポートが出てきた。1988年9月26日に成田空港から出国している。ニューヨークからワシントンをめぐり、サンフランシスコからロス経由で帰国していた。
ニューヨークで旧知の早坂茂三氏と会った。ホテルのバアで一杯やりながら「どうしているの?」と私。「いやー、ニューヨークに事務所を持とうと思っているんだ」と早坂氏。この会話は説明が必要である。
六〇年安保の当時、早坂氏は東京タイムズの政治記者であった。首相官邸前で警備していた警官隊と言い争っていた早坂氏は、激高してもみ合いになって、背広の袖が引きちぎられる騒動となった。そこに通りあわせた私が、間に入ってひき放すはめとなった。
共産党員だったこともある早坂氏は熱血漢。私もどちらかといえば血の気が多い方である。お互いに二十八、九歳の頃であった。その早坂氏が二年後に田中蔵相の秘書官になったから驚いた。
「私のなかの歴史」で早坂氏は次のように言っている。
七月の改造人事で蔵相になった彼(田中氏)に暮れの二日、大臣室に呼ばれてね。「おれは十年後に天下をとる。片棒を担がないか。きみが赤旗を振っていたことは知ってる。それは構わない」。世間は高度成長時代に猛進していた。「うちなる転向」を終えていた私は大蔵大臣秘書官になった。三十二歳の時です。親方はまだ四十四歳だった・・・。
だが田中秘書となった早坂氏は順風満帆だったわけでない。田中元首相の愛娘・真紀子さんから嫌われ、1985年2月27日に田中元首相が脳梗塞で倒れ入院してからは、不遇の身となった。ひそかに政治評論家として再出発する準備に余念がなかった。
ニューヨークで早坂氏と飲んだ時期は、まさしく早坂氏が華麗な転身を遂げようとしていた。「オヤジとわたし-頂点をきわめた男の物語 田中角栄との23年(集英社 1987年)」「政治家田中角栄(中央公論社 1987年)」「早坂茂三の”田中角栄”の回想録(小学館 1987年)」「駕籠(かご)に乗る人 担ぐ人-自民党裏面史に学ぶ(祥伝社 1988年)」は、いずれもこの時期の本。
しかし”角栄もの”も書き尽くせば、後に続くテーマがなくなる。ニューヨークに事務所を持とうとしたのは、日米関係の深部に迫ろうという意欲に駆られていたと私は解釈した。「角栄は米国によって政治的に葬られた」という噂があった頃である。
「日米戦争は圧倒的な軍事力によって日本は敗北したが、経済戦争で日本は米国をうち負かした。日本の経済力で米国全土を買収できると商社の若い者は威勢がいい」・・・たしかにニューヨークにいる商社員の鼻息の荒さは、私も感じていた。
「軍事超大国の米国は外交面で弱点がある。国務省よりも国防総省の力が強いのではないか」「親日的なのは国防総省。国務省は親中国ではないか」「共和党は親日、民主党は親中国」「米国の東部は親ヨーロッパ、西部は親アジア」・・・随分と荒っぽい分析だが、一面では当たっている米国観でもある。酒が入っているから、話が大雑把になる。
結局のところ早坂氏のニューヨーク事務所は実現しなかった。日本で早坂氏の政治評論が売れっ子になったからである。人相も昔の早坂氏らしかぬ傲岸な風貌に変わっていった。国内講演で日航機が離陸する際に、椅子を倒したままだったので、スチュワーデスから椅子を元に戻すように促されたが拒否して、出発が大幅に遅れ、新聞ダネになったこともある。酒が入っていたとはいえ、これは頂けない。2004年6月20日に肺ガンで急死している。

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