547 鄧(とう)小平に逆った人々 渡部亮次郎

中国経済の改革開放を主張する鄧(とう)小平。その彼自身を含む八大元老こそが彼の敵だったのである。
八大元老(はちだいげんろう)とは八老とも呼ばれ、1980年代から1990年代にかけて強い権力をふるった中国共産党の長老で構成された集団である。
非公式の集団ではあるが、中共中央政治局常務委員会(1987年11月は趙紫陽、李鵬、喬石、胡啓立、姚依林の5人)をしのぐ権威を持っており、重要な決定は彼らにゆだねられ事もあった。
第2次天安門事件の武力行使【6・4事件】、趙紫陽の総書記解任(解任理由の1つに、訪中したゴルバチョフに「最終決定は鄧小平にある」と明かしたためとされる)や、後任を江沢民に据える決定は彼らの意思で行われたとされる。当時、中国は「八老治国」と揶揄された。
メンバーのうち7人は以下の通り。
(1)鄧小平 中央軍事委員会主席(1980年-1989年)、中央顧問委員会主任(1982年-1987年)
(2)陳雲 中央顧問委員会主任(1987年-1992年) 。彼が鄧の最大の敵だった。つまり毛沢東路線の継承第一人者だった。
(3)彭真 全国人民代表大会主席(1983年-1988年)
(4)楊尚昆 中華人民共和国主席(1988年-1993年) 。彼は鄧支持者。
(5)薄一波 中央顧問委員会副主任
(6)李先念 中華人民共和国主席(1983年-1988年)、その後全国政協会議主席
(7)王震 中央顧問委員会副主任
8人目が誰になるかについては諸説あるが、一般的には鄧頴超(中国人民政治協商会議議長(1983年-1988年)、周恩来未亡人)とされる。
後に李先念より下の3人と入れ替わる形で、宋任窮 中央顧問委員会副議長、全国人民代表大会主席(1988年-1993年)を勤めた万里、習仲勲が入った。
この中で2007年現在存命しているのは万里だけである。
鄧反対派の実行部隊は鄧(とう)力群元中央宣伝部長、宋平政治局常務委員、李錫銘北京市党委書記らで、鄧氏はいたるところで彼らを名指しで批判した。
鄧反対派は天安門広場での人民解放軍による人民虐殺、いわゆる6・4事件の結果冷えた自由国家群からの投資冷却の責任を塔に押し付けて、開放改革そのものを押しつぶそうとした。それを覆そうとしたのが南巡講話なのである。
鄧自身が提唱した改革開放政策が六四天安門事件(1989年) ソビエト連邦崩壊(1991年) によって頓挫の危機に陥いり、中国が国際社会から孤立したことからとうは最後の力と知力を振り絞ってひねり出した。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
南巡講話(なんじゅんこうわ)は、鄧小平(Deng xiaoping)が1992年1月から2月にかけて武漢、深セン、珠海、上海などを視察し、重要な声明を発表したもの。
国内外の情勢を分析し、第11期第3回中央委員会総会以来の中国共産党(以下、党と呼ぶ)の主な実践と経験は全て終結し、日ごろの混乱と思想統制の多くの重要な認識問題に対して、明確に答えた。計画と市場は全て経済的手段であり、社会主義と資本主義の質において違いはないと指摘した。
その内容は、「社会主義の本質は生産力の自由、生産力の発展、搾取の削減、対立勢力の分裂をなくし、最終的には共に裕福になることである。基準の判断の是非を問う。主に考えてほしいのは、社会主義の発展が社会の生産力に有益かどうか、社会主義の高まりは国家の総合的な国力に有益かどうか、人民の生活レベルを上げることは有益かどうか。チャンスを掴み続け、思い切った改革をし、発展に弾みをつけ、党の基本的な方針を長く維持し揺るぎないものとする」といったもの。
しかし、このことについての解説は日本側では全くされてなかった。その理由は日中記者交換協定があるからである。一般の日本人はほとんど知らない。
1964年4月19日、当時LT貿易を扱っていた高碕達之助事務所と廖承志事務所は、その会談において、日中双方の新聞記者交換と、貿易連絡所の相互設置に関する事項を取り決めた。会談の代表者は、松村謙三・衆議院議員と廖承志・中日友好協会会長。この会談には、日本側から竹山祐太郎、岡崎嘉平太、古井喜実、大久保任晴が参加し、中国側から孫平化、王暁雲が参加した。
(1)日本政府は中国を敵視してはならない。
(2)米国に追随して「2つの中国」をつくる陰謀を弄しない。
(3)中日両国関係が正常化の方向に発展するのを妨げない
の3点の遵守が取り決められた
要すれば中国政府が行う発表物(新華社記事)以外には書くなという足かせが履かされているのが在中国日本報道機関の束縛なのである。
隙間はある。共同通信の特派員の任期を終えてなお産経新聞社に転籍して中国報道を続けているのが伊藤正総局長。彼が今回初めて、鄧小平の死力を尽くした最期の闘いを余すところなく描破しているのが「鄧小平秘録」である。
鄧反対派は国内外に溢れていた。反対派は毛沢東思想を身にまとうことで自己を正当化し、鄧の言う改革・解放路線は毛思想を否定し、崩壊したソ連のあとを追うものだと党の機関紙「人民日報」まで動員して攻撃した。
しかし、この動きは日本には全く伝えられなかった。なぜなら国営通信「新華社」には発表が一切無かった(当然である)からである。特派員たちは懸命の勘を働かせたろうが、取り付く島はどこにも無かった。無いまま21世紀に来てしまった。而して伊藤正なかりせば永遠の謎として葬られるところだった。
連載はいよいよ命を張った!鄧の巻き返し「南方視察」に乗り出すところに差し掛かった。このときすでに鄧は江沢民に失望していたのだという。2007・05・06

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