五月十二日のの朝、西和賀町の玉泉寺で直木賞作家の三好京三氏が亡くなったことを聞いた。「子育てごっこ」で昭和五十一年下期に第七十六回直木賞を受賞している。本名は佐々木久雄。岩手県生まれで、一関高校を卒業後、慶応大学の通信教育で文学部を卒業している。
「そういえば、きだみのるが寺にきたな」と玉泉寺の泉全英和尚が言いだした。昭和四十三年のことである。ふらりと寺に現れたきだみのるは、寺に居座って長逗留をしている。薄汚い姿をしているので「どなた様だろうか」と連れの編集者に聞くと「きだみのるという偉い方です・・・」。
十日も寺にいたかと思うとふっと消える。しばらくするとまた現れる。数年はそんなことが続いたという。肉をぶら下げて現れ、自分で料理して和尚にも振る舞ってくれたこともある。だんだんと飾らないきだみのるの人柄に魅せられて、きだみのるに感化された和尚は、きだみのるに一筆を所望した。
「人は、弱きが故に、尊しとなす」の書であった。築庭に励んでいた和尚は、この文字を碑に刻み、”蓮心の池”のほとりに建てた。きだみのるは知人の妻との間に千尋さんを生んでいる。放浪の旅に千尋さんを連れて出たのだが、玉泉寺には連れてきていない。
昭和四十九年に三好京三氏のところにきだみのるが千尋さんを連れて現れている。奔放な十一歳の少女を三好夫妻が預かり、学校に通わせ、それを題材にして書いたのが「子育てごっこ」。
きだみのるが玉泉寺に現れた時には、千尋さんは五歳だったから、さすがに放浪の旅には連れて歩かなかったのであろう。だが、和尚は千尋さんのことを知っていた。「奔放な子だったが、頭がずば抜けて良く、高校をトップで出た筈だ」。
後年、千尋さんは育ての親である三好京三氏から性的ないたずらをされたと言い出して、物議をかもしたが、三好京三氏は沈黙を守っている。「頭の良い子だから、自分が小説のモデルにされたことに反発したのではないか」と和尚は言う。
スケールの大きい創作や文明批評で「きだみのる時代」を築いたきだみのるは、昭和五十年に没している。
きだみのるの碑は”蓮心の池”のほとりで今も静かなたたずまいをみせている。千尋さんはロンドンの大学をトップで卒業し、英国人と結婚して平和な生活を送っているという。
第七十六回直木賞の選評が面白い。川口則弘氏の労作をお借りした。
水上勉 作者の目は、よくゆきとどき、狡くて、かしこくて、おしゃまで、手に負えぬ少女をよく描き、教師夫妻の受け身な心理も、おもしろく納得できた。この作者の心田を買った。とにかく温かい。東北の寒地にこういう文学が芽をふいたことが嬉しい。
川口松太郎 「子育てごっこ」だけが小説らしい小説だった。モデルのある作品なのでモデルの人物論から始まった批判は、作家にとって気の毒だった。」「入賞したのは当然だったし、よかったと思う。教育出身者の一つの型の中に落ちないように要心して欲しい。
今日出海 多数決の結果ではあるが、この結果に不満を表明するいわれは毫もない。自然児の面倒を見る教師夫妻の善良さが私には倫理的な意味でなく美しかった。作品も素直な佳品であったことに違いはない。
村上元三 モデルで得をしているし、文章も素直だが、職業作家として立って行ける新人を選ぶのが直木賞の条件とすると、いまだに疑問が残る。
柴田錬三郎 出来ばえを、否定はしない。しかし、この作品は、“きだ・みのる”という奇人が実在したからこそ、つくられたのであり、一応まとまっている、というだけで、私には、一片の感動さえなかった。
司馬遼太郎 小説としての完成度も高く、何賞であれ、十分受賞に値する作品とおもわれた。
源氏鶏太 授賞に反対だった訳ではない。終始、好意をもって読んだし、読了後の爽やかさも格別であった。ただ、芥川賞と直木賞の区別がある以上、すくなくとも直木賞的でないと、初めから別にしていた。
石坂洋次郎 私はその作品のモデルらしい文学者の噂話を聞いたことがあったので、多少の興味はそそられたが、本賞として選ぶわけにはいかなかった。文学作品として選べる筋合いのものではなかったのである。
松本清張 今回の候補作品中で小説になっているのはこれだけであり、作家を感じさせたのもこれだけである。ヘタな「純文学」のように平板乾燥にならないのは、わたしもその一端を垣間見ているモデルの奇矯さもさることながら作者の構成の腕である。はじめはその虚構性の稀薄さに直木賞的でないという一抹の危惧もあったが、受賞には全面的に賛成した。
564 三好京三氏の死ときだみのる 古沢襄

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