566 ひとりの祭 一ノ瀬綾

深川に住んで十一年になる。それまでは、目黒と品川で十余年暮らした。在京二十四年の半分近い年月を、下町で過ごしたことになる。くわしくは、江東区牡丹町二丁目だが、私はここが大そう気に入っている。
入居した年の八月、深川八幡の本祭りにぶつかった。十五日の朝まだき、戸外がひどくざわめいている。ベランダへ出てみて仰天した。四階から見下ろす牡丹通りを、神輿の行列がびっしり埋めていた。
五十基の神輿が勢揃いする出発地点だったのである。下町をなにも知らずに越して来て、この幸運にめぐり逢い有頂天になった。私の住まいから深川八幡宮までは、歩いて十二、三分であり、並びには深川不動尊があって、月に三日縁日が立つ。
仕事に疲れると、私はよくこの辺を散歩する。川があって橋が多く、木場の名残りをとどめる川筋の風景は、毎日眺めていて少しもあきない。史跡めぐりのもこと欠かず、辰巳芸者の出入りする料亭が軒を並べる小路も、寂れはしたがまだ充分風情がある。
私が越して来た頃は、この小路で夜ともなれば、新内流しの爪弾き聞かれた。粋な着流し姿で、三味線抱えて流していたのは、初老の男だった。
木場が移され、川面に木材が見られなくなると共に、岸辺にニョキニョキと高層ビルが建ち始めた。マンションやホテルである。見通しがきかなくなり、川面を彩る夜のネオンも、風情を無くして情緒が薄れた。
それでも、ここには祭がある。三年に一度の本祭のほかにも、毎年町内ごとの祭は行われている。門前仲町の商店街には赤白の引き幕が張られ、提灯がゆれて、ピーヒャラ、と祭囃子も流される。
マンションの管理組合から、町内会に納める寄付金の話が持ち出される頃になると、私は近づく祭の気分で落ち着かなくなる。
猫と二人の暮らしだから、祭に浮かれて飲んだりさわいだりするわけではない。それでも、自分の町の、地元の祭だという気分になるからおかしなものだ。
目黒や品川に居た時代は、身近な祭にもさして心を動かされなかった。旅行者の気持ちで暮らしていたのだろう。
私の郷里は、長野県の山村である。古くから伝承された祭は幾つかあるが、神輿の出るような夏の祭は無い。
なつかしく思い出されるのは、部落の真ん中にある観音堂のリンゴ市である。八月の下旬だから、農家では稲の三番除草が終わって、ホッとした時期に当たる。昼は坊さんによる供養の読経があって、村人は持ち寄った酒を酌み交わす。夕方から夜の更けるまで、部落の沿道にはびっしりと、リンゴを山積みした露店が並んだ。アセチレンの匂いが立ちこめる夜道を、浴衣やワンピースに着替えた村人達が、ぞろぞろと集まって来た。私の小さな初恋は、そんな素朴なにぎわいの中で芽生えた。
今、東京の下町で味わう夏祭は、粋でいなせで、盛大で、めっぽう威勢がいい。いそいそと神輿見物に行く私は、もう恋の味も知りつくした姥桜である。
独り暮らしの女にとって、祭とか正月とかの、世間様がにぎやかに楽しむ時というのは、どうも工合が悪い。正月の淋しさを独りで耐えるのが嫌だから、旅に出るというエッセイを書いた女流作家がいた。
祭も似たようなものだ。浴衣などを着て、神輿見物の人混みにまぎれてみても、一人はやはり独りである。まわりはみんな家族連れか、アベックかグループで、「見て、見て!」「ワッ、すごい!ね、ね・・・」などとやっている。こっちもワクワクして、同意を求めようとするが、合槌打ってくれる連れが居ない。
しらけて淋しくても、やはり私は出かけて行くし、祭は好きだ。
神輿見物は炎天がいい。冷夏の時は、見物人もはずまなかった。初めて見た日は、アスファルトも溶けそうな猛暑で、神輿を担ぐ男達の全身から湯気が立っていた。
ここの祭は、別名水かけ祭と言うだけあって、沿道から浴びせられる水の量は大変なものである。地鳴りのようなどよめきが近づくのを、今か今かと待つのも楽しい。
芸者衆や世話役の先導で唄われる木遣音頭がまたいい。褌姿のお角力さんや、裸の全身にくりからもんもんの刺青した男達を見かけるのも、この祭である。
背中いっぱい、花札の図柄なんかを浮かせた、いなせな若い衆なども居て、江戸の祭の遠い賑わいが甦ってくる。
ひよっとすると彼らは、地元の者ではなくて、昨今はやりのお神輿野郎で、担ぎに駆けつけた連中かもしれない。
外国人も、女性の担ぎ手も、ぐんと増えたのは、いい事にちがいない。田舎者の私が、下町っ子面して、納まっているのだから。
五月に上梓した小説の中で、私は主人公の一人を深川生まれに設定した。
下町の小さな和菓子屋の娘は、私の想像の中で自由に生きて動いてくれた。彼女の兄は下町を出ていたが、深川祭には神輿担ぎにすっ飛んで帰る。鼻柱は強いが、単純で気のいい男である。
そんな人物達が、いつの間にか、私の生活圏内に紛れこんで来た。魚河岸に勤めるKさん、呉服屋の若旦那、不動産屋を営む肝っ玉母さん・・・。十一年の歳月がもたらしてくれた結果だろうか。
私は最近、木場の歴史に惹かれている。暮らしの中から眺め、肌で触れた感じのその奥を知りたいと思う。これから先もたぶん、ずっとひとりの祭を味わうだろうが、ここに住むかぎり悔いはない。(杜父魚文庫より)

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