春の陽気に浮かれたわけではないが、久しぶりに浅草にでて隅田川沿いの散策した。東京に生まれ、東京で育った私だが、地方と都会が混然としている様な不思議な街・浅草に惹かれる。
子供の頃、両親に連れられて隅田川のポンポン蒸気によく乗せて貰った。川下りをした船付場の近くに大阪寿司の店があって、入り口の鳥かごの九官鳥が「お早う!」と叫んでいた記憶が鮮明である。子供心にも下町の江戸情緒が深く刻み込まれている。
朱塗りの欄干で彩られた吾妻橋から隅田川を眺めると両岸の桜が満開。月曜日というのに見物の人出でごったがえしている。自由が丘や田園調布の様な気取った街と異なってサンダル履きでジャンバー姿で歩くことができる気楽な街が浅草である。武田麟太郎や高見順、新田潤といった文士が愛した街である。
しかし、戦後の浅草は高層ビルが林立しポンポン蒸気も立派な遊覧船になっていて、江戸情緒のかけらも見いだせない。私自身が矢田挿雲の「江戸から東京へ」という本を持っていたのが、いつの間にか紛失していた。今の東京に江戸情緒を求めるのは、どだい無理な相談なのだろう。
友人の一ノ瀬綾さんから、深川佐賀町下之橋の橋際を沽券図によって構成復元した「深川江戸資料館」があることを教えていただいた。江戸情緒を資料館でしか感得できない時代になったのか、とちょっぴり皮肉な言葉を投げかけたくなる。素直に資料館を見学したらともう一人の私が囁いているのだが・・・。人間というのは厄介な存在である。
このこだわりも私たちの世代で消えていく。東京で生まれ、東京で育った私の娘たちは齢四十の坂を越えたが、オヤジの江戸情緒を求める心なんってハナから相手にしていない。上野駅に運ばれてくる地方の匂いよりも東京駅のダイナミックな雑踏に東京を感得している。浅草よりも自由が丘や田園調布の世界を身近に思っている様だ。戦後の東京こそが娘たちの故郷なのであろう。
3LDKのコンクリート・ブロックで、幼稚園・小学校時代を送った娘たちは、土の匂いに対する郷愁がさほど鋭敏でない。東京だけではない。全国的に都市化の波が進んでいるから、土の匂いにさほど郷愁を持たない地方人も増えているのではなかろうか。
生粋の江戸っ子なんて、ほとんど存在しない。ほとんどが土の匂いの中で育った地方人がお江戸にでてきて東京人面している。東京育ちの私だって、父は岩手県人、母は長野県人。武田麟太郎は大阪人、高見順は福井県人、新田潤は信州人。
もっとも高見順は、東京府立一中、旧制第一高等学校、東京帝国大学出だから、地方人を父母に持った東京人といえる。しかし喧噪の東京を離れて、静かな北鎌倉に居を定めていた。
ふたたび東京一極集中で、地方から東京に出てくる若者が増えていると聞く。だが、自分が育った地方の土の匂いだけは忘れてほしくない。老境に達すれば、分かることなのだが・・・。
575 土の匂いを伝える 古沢襄

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