576 三十光年の愛 吉田仁

うち曇る空のいづこに星の恋
杉田久女の詠句。久女は俳誌「ホトトギス」を主宰した高浜虚子に認められ,“足袋つぐやノラともならず教師妻”という句で知られる。“炎の女”とも呼ばれる。
掲句は“星の恋”が季語で,七夕のこと。星祭りともいう。季は秋だが,新暦では夏。詠われている内容の説明は不要だろう。
七夕は中国から伝来した五節句のひとつ。
 ・一月七日=人日[じんじつ]といって七草粥で健康を祝う日
 ・三月三日=上巳[じようし]といって女の子のお祝いの日
 ・五月五日=端午[たんご]といって男の子の祝日
 ・七月七日=七夕[しちせき]が星祭り
 ・九月九日=重陽[ちようよう]は菊の節句
この五日が五節句。みな旧暦の行事だったが,いまは新暦でおこなわれている。割ることができずに縁起がいいとされる数字が重なっている。といっても一月だけ数字が重ならない。一月一日は別格だから,ずらしたのだろう。上巳の九月九日は縁起のよくない数字にみえるけれども,日本で“く”と読んで“苦”につながる九も,中国では易学の陰陽の陽をあらわして積極性・能動性を示すとされるらしい。
七並びも縁起がいい。ただし,もとをたただせば悲しい神話だった。
織女は天帝の娘。織物が上手で,機織りに夢中になっているうちに娘盛りを過ぎてしまった。憐れに思った天帝は,牽牛を婿にむかえてやる。ところが,結婚すると織女は機織りそっちのけで牽牛との淫楽にふけってばかりいる。これを怒った天帝は天の川を挟んで東と西にふたりを引き離し,一年に一度,七月七日の夜にだけ会うことを許した,という。
この中国神話が伝わった日本にも,また棚機[たなばた]の儀式があったらしい。だから中国渡来の行事が混ざり合わさり,七夕をタナバタと読むようになったのだといわれる。
タナバタ(棚機)というのは棚つまり横板のついた織機で,タナバタを扱う女性をタナバタツメ(棚機津女)と呼んだ。古代には選ばれた女性が機を織りながら神を待つ儀式があった。
タナバタツメに触れた『古事記』の一節がある。ドタバタ喜劇のようで,おもしろい。岩波文庫から原文を噛みくだいて紹介してみよう。
・・・太陽の女神であるアマテラスオオミカミ(天照大神)が,神聖な機織り小屋においでになって,神に捧げる衣をタナバタツメに織らせていた。
すると,そこへ弟神で乱暴者のスサノオノミコト(須佐之男命)がやってきた。
スサノオノミコトは機織り小屋の屋根にのぼると,てっぺんに穴をあけ,まだら毛をした天馬の皮を尾のほうから逆さまに剥ぎ,その天馬を屋根の穴から投げこんだ。
皮を剥がされた天馬は小屋のなかで大暴れし,あわてて逃げだそうとしたタナバタツメは,機織りの梭[ひ]に陰部[ほと]を衝いて死んでしまった――
梭というのは織機の付属品のひとつ。横糸を通すさいにもちいる細長い舟のかたちをした器具で,両端が尖っている。この尖ったところで女陰をしたたかに衝いた。よりによって妙な部分を衝いたものだが,やはり急所なのだろう。
 
この件についてひとくさりあってしかるべき『古事記』の記述は即物的で実にそっけない。ひとこと,“死にき”で終わっている。
そして,このスサノオノミコトの乱暴狼藉に大いに怒ったアマテラスオオミカミは,天の岩屋戸に閉じこもってしまった。ために世界が闇に沈んだ,という例の有名な一節がつづく。
やれやれ,活きのいい八百万の神々が闊歩する日本の国生みのころというのは,たいへんな時代だったようである。
この『古事記』を編纂したのが太安万侶[おおのやすまろ]。彼は『続日本紀』の記述から七二三年の旧暦七月七日に死んだとされていた。
七夕の日とは奇遇といっていい。そのうえ,西暦の七二三年といえば日本の年号で“養老”の七年目にあたる。養老七年七月七日,スリー・セブンで,死者には失礼だがまことに縁起がいい。
ところがこの太安万侶,長いあいだ実在を疑われていた。『古事記』も後代の偽書ではないかとする学説さえあった。その疑念を見事にひっくりかえす大発見がなされたのは,安万侶の死から数えて千二百五十七年後の一九七九年(昭和五十四)一月のこと。奈良市内の茶畑の土のなかから偶然にも彼の墓と墓誌が出てきたのである。
その墓誌に刻まれていた死亡年月日は,七月の六日だった。七日でなかったのは残念だが,わずか一日の違いである。悠久の時の流れのなかではとるにたりない。死んで星になった安万侶も,墓誌発見のニュースに沸きたつ日本という地球上の小さな一郭を,静かにほほえみながら見おろしていたことだろう。
中国神話の七夕説話では,織女星と牽牛星とが天の川を渡って旧暦七月七日に一年に一度のデートをする。
 織女星は和名が織姫星,ラテン名はベガで,琴座の首星。
 牽牛星は和名が彦星,ラテン名をアルタイルといい,鷲座の首星。
ベガ,アルタイルと書くとハイカラな響きになる。織姫・彦星でも充分にロマンチックだが,しかし,艶消しな話をすれば,このふたつの恒星は十五光年ほど離れている。
光速で十五年の隔たりだから,チカチカと光を送って片道十五年。たとえアルタイルが“愛している!”と光通信でささやいても,“わたしも!”というベガの返事がもどってくるのは三十年後である。“星の恋”とは“三十光年の愛”が年に一度むすばれる夜といいかえてもいい。
ひとくちに片道十五光年,往復三十光年といったが,その距離は日常的な感覚ではとても実感しがたい。一光年は約九兆四六〇〇億キロメートルだという。三十光年は約二八三兆八〇〇〇億キロメートル。たとえば,地球の一周を四万キロとして,はたしてその何倍であるかと考えれば気が遠くなる。
いや,愛するふたりには気の遠くなるひまもない。十五光年のへだたりなんて,互いに歩みよれば七・五光年。古典力学では一夜にしては飛び越えられない距離でも,愛という神秘の力のまえにはなにほどでもない。
七・五光年であろうが十五光年,三十光年であろうが,宇宙という無限の尺度のなかでは短い距離にすぎない。われわれの住む地球が浮かぶ銀河系でさえ直径は約十五万光年といわれる。ベガとアルタイルの距離の,ほんの一万倍だが,“星の恋”は,ちっぽけな人間の時空感覚や思惑などはるかに超越した広大な舞台でくりひろげられる壮大なロマンスであるとともに,宇宙の片隅でひめやかにささやかれる小さな恋でもあるようだ。
そんな宇宙規模でのスケールの拡大や縮小にふけっていると,冒頭にかかげた“うち曇る空のいづこに星の恋”などというもどかしさも,あくまで人間的にすぎる感覚だと一蹴してしまいそうになってしまう。地球の一郭が一年のある日,雲に覆われていようがいまいが,牽牛・織女は気にもとめずに宇宙で愛をささやききかわしているのだろうから。
とはいえ,やはり人間界にたちもどらなければならないぼくは,杉田久女の句をくちずさみつつ,ことしの七夕も雨に祟られそうだなどと雲行きを心配するのである。雲のない月の上で星祭りができるようになるのはいつのことか。
日本で,まだ梅雨も明けないうちに七夕があるのは新暦の無理なところだ。仙台の七夕祭りのように月遅れのほうが,新暦よりはまだ理にかなっている。
夏の観光地であるぼくの郷里でも,かつては夏祭りの一環として,いちばん繁華な商店街で七夕を祭った。やはり月遅れで,それでも気候が不安定な土地柄なのか,妙に雨に祟られたという記憶がある。
太い笹竹につけた短冊や色紙そのほかの飾りつけは,昔はみんな紙製だった。雨に濡れるとだらりとしぼみ,すぐに切れた。それでなくとも,そぞろ歩きの見物人に引っぱられる。通りは,さまざまな色の紙屑で埋まったものだった。
それでも当節のようなビニール製よりは子供心にも哀愁が感じられ,はるかによかったという記憶がある。上京してすぐ,阿佐ヶ谷だったか,中央線沿線の七夕を見物に出かけた。ビニール製の飾りつけばかりで心底がっかりした。キラキラと一見きれいではあっても味気ないのだ。
七夕の街をひとまわりして家に帰ると素麺が出た。七夕に素麺はつきものだった。暑い夏のさかりに食べる素麺はうまい。お中元によく素麺を贈るのも,季節にあった食べもので保存がきくうえに,細く長くという縁起かつぎもある。
七夕とは,その細くて白い麺と織り糸との連想によって結ばれているのだろうと単純に思っていたら,マラリア除けのまじないの名残りだという説もあるらしいと知って驚いた。
大日本除蟲菊中央研究所の島村敏夫という人が紹介している説なのだが,マラリアと素麺と七夕がどこでどうつながるのかまでは書いてくれていない。ともかく,マラリアはハマダラ蚊によって媒介されるという事実が発見されるまでは正体不明の死病だった。そのマラリア,日本でいう瘧[おこり]を防いでくれると信じられたとすれば,素麺は,たしかに縁起ものにちがいない。
食べものと七夕のかかわりでいえば,ところてんも欠かすことはできない。
  一尺の滝も涼しや心太
と小林一茶も記しているが,“心太”と書いて“ところてん”と読むのはおもしろい。七夕と書いて“たなばた”と読むのと同じく当て字で,“心天”と書いても通じる。
与謝蕪村の句もいい。
  ところてん逆しまに銀河三千尺
蕪村は“ところてんをすすりこむ気分は逆さまになって銀河三千尺を吸いこむように爽快だ”と詠いあげた。いっぽう前掲の一茶は四角い筒からところてんが突き出されてくる瞬間をとらえて“一尺の滝”と形容し,その清涼感を詠んでいる。
歌の出来としては,やはり軍配は蕪村にあげたい。ところてんと気宇壮大な“銀河三千尺”とをつなげた着想はすばらしい。なにより“逆しまに”の一語が利いている。七夕の季節になるとおのずと心に浮かんでくる“定番”の句である。
夏の定番といえば,カルピスを忘れることはできない。“初恋の味”というキャッチフレーズとともに季節の飲みものとして定着して久しいこの乳酸飲料は,一九一九年(大正八)の七月七日を期して発売されたという。
現在は水で割った缶入りも出ているが,この缶や罎の包装紙に印刷されている水玉模様は,天の川をイメージしたものらしい。乳酸からミルキーウエイ(銀河)へという連想の飛躍もあるのだろうけれど,銀河をはさんだ星の恋をイメージして売り出されたカルピス,八十年もたつというのに,一年に一度の逢瀬をとげる織姫と彦星の初恋?のように,ういういしさを失わない。
初恋の味こそ至上の味というわけか,梵語(サンスクリット,古代インド語)で“至上の味”を意味するサルピスという言葉にひっかけてカルピスと命名されたらしい。
カルはカルシウムからきている。発売当初のポスターをみると“滋強飲料”とうたってあり,いまならさしずめ健康飲料というところだろう。
子どものころ,毎年夏になると,お中元にカルピスがとどいた。化粧箱をあけると,ふつうのカルピスとグレープ味もしくはオレンジ味どちらかとのセットで二本の罎が並んでいた。さっそく罎の包み紙を剥いて氷をいれたコップに注ぎ,水で割ってかきまわす。その手間がかかるところも待ち遠しくてよかった。
甘酸っぱいあの味はいまだに忘れられないけれど,さて贈り主はだれだったろう。(杜父魚文庫より)

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