ぼくは中野区の沼袋というところに住んでいるが、歩いて数分のところに眼病に効くと知られる新井薬師のお寺さんがある。その参道のちょうど入口近くにある「浜田とうふ店のことを、味探検第34回で書いた。
浜田豆腐店のこと・・・10数年前に引っ越してきた直後に、女房から、お豆腐買ってきてといわれて、このお豆腐屋さんではじめて買った豆腐を見て普通の2倍はあるおおきさにびっくり。家に帰って、おいしさにまたびっくりしてしまった。
浜田さんご夫婦のふたりとも腰が曲がって、黙々と働き、そして客にお世辞ひとついうでなく、豆腐の絹と木綿の種類と数を聞き、揚げやがんもどきの数を聞いて、ポリ袋にいれて輪ゴムでクルクルっと閉じて手渡す。お昼前と、3時からの2回販売するが、その時間になると、近くの人々が並んで待っている。口コミで広がったのか遠くの人も買いにくる。
ぼくは、並ぶ店というのはあんまり信用しないし、待つのが嫌いだからどんな店でも利用することはないのだが、この店だけは例外だ。
浜田さんご夫婦の働く姿を、並んで待っている間ずっと見ているとなぜかうれしくなるのだ。その動作の俊敏さと一寸の無駄のない動きに、ただただ尊敬の念をいだきつつ、ときにご主人のほう、ときに奥さんの方を見ていると、順番がくるという具合だ。
仕事のことを聞かせてくださいと取材の申し込みをしたら、普通はみんな断っているそうなのだが、ぼくが、よく買いにくるどこかの風采の上がらないダンナであることをうっすらとわかっていたらしく、断るのもなんだから、と受けてくれた。
この店のこと、大きなお豆腐のこと、味がよいことは味探検の 記事 で読んでいただくとして、このお豆腐屋さんの浜田さんご夫婦を彷彿とさせる江戸時代天保の改革にまつわる逸話が、まえに読んだ本にあったことを思い出したのである。味探検でもこの話を書いたら、どなたかからお手紙で、記事に書いたことは実話ですか、実話なら教えてくださいという内容だったので、返事を書いてあげたことがある。
豆腐屋与八 、人より大きくて安く売る故にこれを賞す・・・記事では、天保13(1842)年に、豆腐屋与八が、幕府から普通のお豆腐より倍近く大きくて、しかも値段が安い豆腐を売っていることをもって、表彰されたというような話を書いた。これは、実話かどうか、実は、そこまで検証をしていないのだが、『守貞漫稿』という江戸時代の庶民の暮らしや商売人の風俗のことをじつに精緻に、絵入りで書いている本にちゃんと出ている話なのだ。
『守貞漫稿』は、最近岩波文庫本がでて、とても利用しやすくなったので、いつも図書館でコピーしてきたファイルで見ていたぼくとしては、たいへんに重宝している1級のネタ本。岩波文庫版は『近世風俗志』という名前を採用していて、現在まで全30巻、後集5巻のうち、第23巻までが(1)~(3)の3冊になって出ている。
著者、喜田川守貞のことは、本の中で生まれは文化7(1810)年「浪華(なには)」に生まれるとある以外は、あまりその業績について知られない謎の多い人であるが、著者「概略」によれば、嘉永6(1853)年に本書のもととなる第1稿が編集され、そのご手が加えられたりして慶応3(1867)年に最終的な脱稿・編集になったということが記されている。本自体は、明治になって世にでることとなった。
*本や著者のことはさておき、本題の豆腐屋与八を表彰したことを記した「豆腐売り」の項の原文を引用しよう。
*「豆腐売り 三都とも扮異なく,桶制小異あり。
京阪豆腐一価十二文、半挺六文、半挺以上を売る。焼豆腐・油揚げ・とうふともに各二文。江戸は豆腐一価五十余文より六十文に至り、豆腐の貴賎に応ず。半挺あるいは四半挺以上を売る。価半価・四分の一価なり。焼豆腐・油揚げ・豆腐各五文。けだし京阪豆腐小形、江戸大形にて価相当す。また京都にては半挺を売らず、一挺以上を売る。
因に記す、天保十三年二月晦日、江戸の市中に令す。江戸箔屋町豆腐屋与八、豆腐価廉に売る故に官よりこれを賞す。古来、豆腐筥制、竪一尺八寸・横九寸なるをもってこれを製す。これを十あるひは十一に斬り分けて一挺と号けるを例とす。与八のみこれを九挺に斬りて価五十二文に売る。他よりは四文廉なり、云々。当時価五十六文にて、与八のみ形大にして五十二文に売る故にこれを賞す。」(近世風俗志(一)252頁。岩波文庫版1996年5月)
いかがですか、なんともほのぼのとした逸話ではありませんか。この記述のなかには、庶民の食べ物、豆腐をとおしていろいろと当時の食の様子を知るデータが記されていて実におもしろい。(杜父魚文庫より)
578 江戸幕府の粋な庶民表彰のはなし 中島満

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