582 勇将・村上義清の登場 古沢襄

NHKの大河ドラマ「風林火山」で北信濃の勇将・村上義清が登場した。不敗の武田晴信(信玄)に二度まで土をつけた猛将なのだが、歴史上の人物としては、あまりまともな扱いを受けていない。
山本勘介が実在したのか、定かではないのだが、実在した真田幸隆を謀将とするのなら、村上義清は正統派の武将といえよう。作家の新田次郎氏は「村上義清の武勇は卓絶していた。ひとたび彼が太刀を握り、馬に乗れば、当代の武将では村上義清に及ぶものはまずないと云われていた」と最大級の賛辞を呈している。
だが同時に「まともに武田と戦って一度も負けたことのない村上が、じりじりと追いつめられていくのは、村上義清が武勇ほどには知恵者でない証明であった」と手厳しい評価を下している。作家の人物評は厳しい。このあたりが村上義清の人気がない点なのだろう。
信玄は生涯に七十一回の戦いをして、四十九勝・二敗、残る二十戦は引き分けを演じている。敗戦は信濃攻略戦における「上田原の戦い」と「砥石(といし)城の戦い」で、相手はいずれも村上義清であった。
砥石城の戦いは、世に「砥石崩れ」と評されたように武田晴信の完敗であった。天文19年(1550)9月、晴信は7000の大軍で500の城兵がこもる砥石城を囲んだ。東西を崖で囲まれ、比較的攻め安い南西の崖にとりついた武田軍は、総攻撃に移った。
城兵は崖を登ってくる武田兵に石を落としたり、熱湯を浴びせて防いでいる。砥石城を囲まれた報を受けた村上義清は2000の兵を率いて、武田軍の背後を突き、挟撃態勢をとっている。
7000の武田軍に対して2500の村上軍が戦いを挑んだことになる。その結果は村上軍には犠牲が無かったが、武田軍は総崩れとなって、武田二十四将に一人、横田高松を初め1200が討ち取られた。
信玄贔屓の甲陽軍鑑では「信州戸石合戦の事」として扱われている。日にちも天文15年となっていて「晴信公御一代のうちでもかつてないほど痛手をこうむられた一戦だった」と回顧するが、村上義清の応援軍は6000余と過大に数えている。
横田高松の討ち死を認めているが、この戦は山本勘介の知略によって「晴信公の勝利の合戦だったという世間の評判を取った」とまわりくどいが、とどのつまりは敗戦を認めていない。もちろん「砥石崩れ」の言葉もない。
このあたりが歴史書としては甲陽軍鑑が軽んじられる点なのであろう。武田方の「高白斎記」には「砥石城を真田が乗取る」と短い記述がある。一年後のことだが、真田幸隆が謀略を用いて、独力で砥石城を奪っている。
大手柄の筈だが「高白斎記」が素っ気ないのは、詳しく記述すると前年の武田軍の敗北にも触れねばならないからであろう。因縁めくが、信玄が死んだ翌年に幸隆が、この砥石城においてあとを追うように亡くなっている。

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