586 浅草通い 松元眞

稲荷町の仏具屋の前を通るとき、私は必ず小走りになった。
燈火管制下の町並みは、暗い。僅かな月明りが、陳列された仏壇にはねかえり、鈍い金色の列がつづく。不気味なショーウィンドーを横目に十メートルも走ると、必ず野犬が吠えたてて追ってきた。時によっては、四、五匹になり、執拗に追ってくる夜もあった。山手線に乗ってからも、動悸の納まらないことが、ままあった。昭和十七年、私は、中学一年になっていた。
昭和十四年に父が死に、母は、一年近くも寝たり起きたりの毎日が続いた。一時は、自栽の気配すら見せた母だったが、やっと遺骨を手放す決心をし、骨壺を本願寺の納骨堂に預けた。巣鴨に居抜きのカフェを買って引っ越したのが、十五年の春である。
「住み込み、女給求む」の貼紙を見て、最初に飛びこんできたのは、ひとみちゃん、という女性だった。山形出身、屈託なく笑う、小肥りの女だったが、母は一目で気に入り、採用はさの場で決まった。開店準備中、店のカーテンを縫いながら、飽きることなく「一杯のコーヒーから」のレコードをかけ、口ずさんでいた。
「坊っちゃんは、東京生れの東京育ち、いいねえ」
私をつかまえては、手を休め、口癖のようにいう。手先のおろそかになった彼女に、母はよく小言をいっていたが、私はそのたびに、自分が叱責されている、と受けとめた。私はむしろ、そういう彼女に、心を許していた。彼女の年を聞いたことはなかったが、当時でも、二十歳前ではなかったか。
十五年六月、開店。女給は、住み込みを含めて五人。転居以来、母は、父の写真の入った梱包を解かなかった。代わりに、半紙に、「合掌 すればすべてが一になり 生きる力の自ずから湧く」と書き、赤枠の額に入れて、古道具屋で買った小机に立て掛けた。開店前夜、その前に座ったきり、小一時間も動かなかった母の後姿が、今なお薄れない。
店には、父の作家仲間や、築地小劇場の流れをくむ演劇関係者が入れ替わり顔をみせ、子供の目にも、格好がついていった。
翌年末、太平洋戦争突入。十七年は、マニラの占領で明けた。二月シンガポール、三月ラングーン占領と、緒戦の勝利がつづいたが、四月十八日の東京初空襲には、さすがに驚かされた。巣鴨とは目と鼻の尾久にも、焼夷弾が落ちた。翌日の朝刊(東京日日新聞)は、「敵機が何だ、帝都は泰然だ」と見出しは派手だったが、被害については一行も書かれていなかった。しかし、隣家の親戚が尾久で被災し、直撃を受けて死んだという赤ん坊の通夜が、ひっそりと行われた。表立った葬式は控え、被災の話も、それとなく、口止めされた。
夏、石鹸が割当制になり、わが家への支給は、住み込みの女給の分も入れて月二個。たしかこの頃から、「カフェ」の語感が時局に合わないという理由で、「特殊喫茶」と呼称が変わった。朝日新聞に、「海軍」の連載が始まったのが七月一日。学校の授業でも取りあげられ、主人公である真珠湾の九軍神について、挙手をして感想を話す級友も少なくなかった。しかし私の関心は、やや、ずれていた。
わが家の左隣は煎豆屋、右隣が古本屋。斜め前に「国民酒場」が開業するや、すぐさま、長い行列が出来るようになった。一杯目を飲み終えた大人たちが、二杯目を飲むために、行列の最後部めがけて駆け出す。口口に何やら喚きながら走り、列に納まると一斉に笑い出す様を、私は二階の窓から見物し、飽きなかった。
私には、近所に遊び友達が出来なかった。生来、人見知りだったこともあるが、何よりも「カフェの子」と呼ばれることが、こたえた。引っ越しの翌日、年嵩の連中までが、一緒になって私を揶揄した。
「女給と寝られて、いいな、いいな」
ベーゴマやメンコの仲間に入れてもらっても、最後は、きまり文句で囃されて、仲間はずれにされた。事実私は、二階の六畳間で、母とひとみちゃんとに挟まれて寝ていたから、抗弁しようにも、いまひとつ力に欠けた。
疎外された私は、六年生まで、通い慣れた京橋小学校へ、電車通学するしかなかった。放課後も、木挽町あたりの級友の家か、友達に恵まれない日は、銀座松屋で時間をつぶした。玩具売り場では、電動の模型機関車の前に立ち、店員の目を盗んでは、繰り返しスイッチを入れた。書籍売り場では、本の立ち読みに時間を忘れた。
自然、帰宅が夕刻近くなり、女給たちの身支度と重なった。二階全体が更衣の場であったから、小学六年の男の子には目のやり場がなく、次第に、居場所を失った。母も鏡に向かったまま、お帰り、をいうのが精一杯。母の口紅も濃い目になる。和服の日もあったが、派手なドレスの日もあった。私には、真紅のドレスがとりわけ恥ずかしく、その長い裾に、思わず目を背けた。
夕飯は、テンヤ物をとる日が多く、一階の、店とはカーテン一枚で仕切られた上框で、追い立てられるようにすませてしまうのが日課となった。上框の前は、細い通路を挟んで便所だった。女たちが、飛び込んでは慌ただしく店へ出てゆく。半開きになった戸を閉めるのは、いつも私の役目だった。早目から、客のたてこむ時などは、最初からテンヤ物の注文もせず、母は私の食事代を卓袱台に置くなり、身をひるがえすように、店へ出てゆく。
やがて、レコードの音に混ざって母の嬌声がきこえてくる。その声は、私の知らない声であった。私は食事代を握りしめ、気忙しく、裏の引戸を荒っぽく引いた。
当時、食事代としていくら貰っていたのか、思い出せない。私は、銀貨を握りしめ、三度に一度は、その足で巣鴨駅から電車に乗った。目的地は、必ず浅草。食事は諦めた。浅草への執着が、空腹に勝った。
父は、生前「人民文庫」執筆グループの作家であった。発行元「人民社」が淡路町にあり、浅草はさして遠くなかった。加えて、作家仲間が浅草に仕事部屋を持っていたことも手伝って、父はよく浅草を飲み歩いた。
私も父のトンビにまとわりつくようにして、お供をした。「染太郎」「神谷バー」などは、地理も覚えていたから、店の前に佇んでは、中を覗いた。
父の死因となった敗血症菌は、吉原の裏通りで自動車をよけそこなってドブに落ち、その傷口から入った、と聞いていた。私はやみくもに、吉原のあたりを歩き回り、ドブ板を、踏み鳴らしたりもした。仁丹塔の下に立っても、伝法院の前を歩いても、父の呼吸が、私を包んだ。
夜、見知らぬ部屋に取り残されたことがあった。私は、眠りから覚めかけた頭の芯で、三味線の音を聞いていた。小料理屋の二階。田原町。隅に、チンドン屋の道具一式が立て掛けられていた。戸外を歩く、父らしい笑い声。私は窓にへばりつき、トンビをひるがえしながら、肩を組んで濶歩する父を呼んだ。父は、私の声に、一度は手を差し上げたが、そのまま店の前を通り過ぎていった。私はもう一度、ありったけの声を張り上げたが、父はネオンの点滅の中に消えた。私は、何度も階段を降りかけたが、女主人に遮られた。
「すぐ、帰っていらっしゃいますよ」
「六区」では、当時、通称シミキン、清水金一の率いる「新生喜劇座」が旗揚げし、金龍館で人気を集めていた。私は、「笑いの王国」の常盤座とを、その時の出し物によって選んでは、どちらかの劇場に入るようになった。入場料は、最初の頃、何回かの食事代からへそくって、工面していたが、次第に、母から財布ごと渡された時などに、何枚かの銀貨を一度にくすねることを覚えた。呵責はすぐに消えた。普通の家にはある夕餉の団欒が自分にはない。そんな母への憤懣が働いていたからであろうか。
場内は、カーキ色一色。工場から直行する青年の姿が目立った。シミキンの反復する「ミッタナクテショウガネェ」や「ハッタオスゾ」に腹を抱え、一人でいる時など、自分で声に出してみる程になっていた。母の姿も声も忘れた。
しかし小屋がハネ、燈火管制下の暗い「六区」に放り出されると、不意に心細くなった。常に八時は、回っていた。上野までの地下鉄代は、倹約するしかない。空腹を我慢して、私は早足で歩き始めるのだった。
寝入りばな、母の甲高い声で目を覚まされたことがある。
「ひとみちゃん、今、この子の枕元を跨いだわね。何ですか、男の子の頭の上を。謝りなさい」
母の叱声は鋭かった。私は薄目をあけ、こわごわと枕元を見回した。母は、鯨尺の物差しを手にしていた。彼女は、したたかに酔っていた。大儀そうに座りこむと、不貞腐れた。母は物差しをふりかざそうとしていた。
「鹿児島ではね・・・・」
母が鹿児島の士族の娘であることは、私も聞かされてはいた。しかしその因習を嫌い、自由を求めて父と出奔した筈ではなかったか。日頃から、女になぜ参政権がないのかと、不満を隠さなかった母である。当時としては、進んだ女だった。私は、寝たふりをしながら、内心では鼻白んだ。戸惑っていた。
母の剣幕に気圧されて、ひとみちゃんは、ようやく口を開いた。
「ごめんなさい」
稲荷町の仏具屋の前を通る時、いつも私の中を、この時みせた母の直線的な起居が、よぎった。男の子に対する期待に、私の気持ちは、むしろ萎えた。野犬に追われながら私は、小銭をくすねた自分を責めながら、同時に、母に内緒で、父に会いに行っていた私自身にも、後ろめたさがつきまとい、面食らっていた。
帰宅すると、裏口から忍びこむようにして、二階へ。勉強机を隅に押しやり、母とひとみちゃんの分まで、布団を敷く。机の上には、私立中学進学用の「要覧」が、買ったまま置きっぱなしになっていた。すでに担任から、今の成績では、公立校への進学を断念するよう、注意されていた。六年になって、通信簿はみるみるうちに落ちていた。
階下から階段伝いに、李香蘭の歌う「蘇州の夜」。母と見た映画の主題歌であった。しかし、李香蘭のレコードに合わせて歌う母の声は、小学唱歌そのものであった。娘時代、小学校の教職にあった母。正確だが、抑揚に乏しかった。私の心は沈澱していった。電燈にかかった黒い遮蔽布を引きおろした。
浅草へ出掛けた日、私はきまって寝つかれなかった。(杜父魚文庫より)

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