二十一年四月十日早朝、母のハミングで、私は目覚めた。まだ薄暗かった。
弾んだ声は、裏の家庭菜園から聞こえてきていた。映画「愛染かつら」の主題歌だった。機嫌のいい日には、出だしから声に張りがあった。
「やっぱり、市川房枝は偉かった」
土間に入りかけて、いつもの口癖がでた。
「マッカーサーのおかげ、だなんて、よく人はいってるけど、違うんだからね」
前年十二月、選挙法の改正が公布され、婦人参政権が実現した。四月十日は、その投票日である。
大正時代から、日本にも根強い婦選運動があり、市川房枝さんは、常にその中心にいた。活動の流れについては、公布の日、母から長長と聞かされた。いつになく、気色ばんでいた。
たしかに私は、市川房枝の名を聞き知ってはいたものの、活躍ぶりはほとんど知らなかった。 むしろ私には、街頭演説そのものが物珍しかった。バイオリン片手の石田一松の会場では、「のんき節」に喝采した。野坂参三の演説を聴く時は、闘士らしからぬ柔和な口許を、見詰めていた。とりわけ、白いブラウスに黒ズボンの山口シズエの前に立つと、姉でも持った気分になり、私はたびたびその後を追った。
煮豆売りや玄米パン売りが、よく使っていた真鍮の鐘を振り、人が集まると、「弟は戦地で餓死しました。戦争は罪悪です」と、歯切れよく繰り返した。私は聴衆の一人になることで、生まれて初めて大人びた心地になった。もちろん、たかだか中学三年から四年への変わり目にいた私である。この日、母のみせた高ぶりを、受けとめきれる年齢とはいえなかった。
四月十日が近づくにつれ、母は落ち着かなくなった。「モンペ、新しく作ることにしたよ」
焼け残った着物の中から、一枚を選びだし、モンペに仕立て直すというのだ。矢羽模様であった。私は、針先の動きを辿りながら、時折り、昨日までとは違う、憑かれたような母のまなじりを盗み見た。肩に力が入った。モンペは、投票日の前夜おそく、仕上がった。
投票日は、水曜日であったが、戦後初の総選挙ということもあって、一斉に休日となった。母は柳行李から、父の位牌と鉦を取りだし、ミカン箱の上に載せた。焼け出された時、腰に巻きつけて逃げた位牌であった。鉦をしきりに叩いた。
「ミノルさん、二人で行きたかった」
父のことを、本名で呼ぶ姿を見たのは、初めてであった。位牌を前に、しばらく目を瞑っていた。父は昭和十四年、三十七歳で没している。ともに、明治三十六年の生れであった。
「今日は、真も一緒にくるんだ、いいね」
その呼吸には、気迫があった。私は頷いた。
「よく見といて欲しいんだよ、今日のことを」
投票時間は午前七時から午後六時。新聞は社会面で、「婦人や老人は午後ゆっくり投票を」と呼びかけていたが、母は愚図愚図している私を急かし、浮き立つように、新しく仕立てたモンペに穿きかえた。
「朝ご飯、帰ってきてからにするからね」
改めて部屋の中を見回してから、おもむろに父の位牌を胸元に差し入れた。
疎開先は、山形県真室川村だった。二十年四月に巣鴨で被災。一時親戚の家に転がりこんだが、再び戦災に遭う。やむなく六月、知人を頼って疎開したが、二ヵ月後には終戦であった。
知人以外、誰一人、見知った顔のいない土地だっただけに、居心地は最初から悪かった。十月、治安維持法が撤廃され、言論、出版の自由が認められた。特高の手で検挙された多くの人たちも、釈放された。さらにマッカーサーは、五項目の改革指令を出し、「婦人参政権による婦人解放」を幤原内閣に指示した。一日おくれの新聞だったが、毎日、食い入るように読んでいた母は、次第に、上京の覚悟を固めていった。
「まだ、女子供だけの上京なんて無謀や」
占領軍の暴発を理由に、知人をはじめ村人たちはこぞって反対したが、もはや決心は動かなかった。
「私たちは、東京にしか故郷がないんだ」
二人きりの時、上京への思いは堰を切った。
「世の中変わるよ。第一、婦人参政権だなんて、嬉しいじゃないか」
父の友人Fさんに手紙を出し、「上京されたし」の返事を貰った。母の腹づもりでは、巣鴨で飲食店を再開するまでの、いわば仮住まいの確保であった。
私たちは十一月末、立ちずくめの列車に乗りこんだ。Fさんは、戦時中、金町で化学工場を経営していたが、終戦により閉鎖。廃屋同然になった寮舎に、浮浪児を住まわせていた。私たちは、彼らとの共同生活を条件に、一部屋借りることができたが、窓にガラスはなく、雨の日は部屋の中まで水浸しになった。再三、石鹸などが盗まれる。山形から持ってきた米は、炊くたびに鍋ごと消えた。
土地を探しに、母は巣鴨へ通いつめた。私は高千穂中学の三年に編入、復学したが、東大久保の校舎はすでに焼失、永福町に移転していた。金町からは、優に片道二時間半かかった。私は、当分、通学を諦めた。
「巣鴨駅の裏だけど、土地が借りられた。ともかく、家を建てよう」
二十一年一月末、旧知の大工を探しあてた母は、古材木を集めさせて、バラックを建てた。三畳、二畳に台所、便所。四畳半ほどの土間にはカウンターをしつらえ、飲み屋開業にも備えた。押し入れはなかった。それぞれの衣類を入れた柳行李が二個。家具としてミカン箱が二つ、うち一つが私の勉強机、一つが食卓であった。畳も建具も入らない。仕方なく、板張りの上に筵を敷いた。床下からは、容赦なく寒風が吹き上げた。
電圧が低いため、電燈は暗く、夜、文字は読めなかった。しかし雨露さえ凌げれば、上乗であった。私は、ようやく通学を始めた。
三月に入り、母が池袋の闇市から、毎日鍋一杯ほど、豚のレバ、ハツなどを買いこんでくるようになった。串に刺すのが、私の仕事になった。ザラ紙に朱で、「やきとん カストリ」と書いて張りだし、表には、椅子がわりにミカン箱を並べた。アセチレンランプをともし、二週間辛抱したが、立ち寄った客は十人に満たなかった。なにしろ一面の焼け野原。隣のバラックまで、十メートル以上も離れていた。街燈は、もちろんない。暗闇の中を、人人は懐中電燈片手に、足早やに歩いていた。それでも、母の表情にかげりはなかった。
「来年、駅前にマーケットができるそうだ。権利さえ取れれば、食べていける。それまでの我慢。私も頑張る」 張り紙は外したが、私の爪には、内臓の匂いがしみついた。手の先を口に近づけると、吐き気がした。私は、友人の前でも、思わず両手を後ろに回した。爪の匂いは二ヵ月ほどで消えたが、私の習性は残った。
四月、四年に進級。突然、制度が変わり、四年生からでも、高等学校の受験ができることになった。
「どうせ度胸試しなんだから、一高でも受けるんだな」
教頭が教室にきて、無責任に煽った。とはいえ、学力不足は、自分自身がよく知っていた。戦災、疎開。教科書など開いたこともない。級友に誘われ、一応、研数学館の入学手続だけは済ませた。特に、数学が不得手だったからだ。母が、二畳の部屋にトランスを据えつけた。
「勉強の時に使ったらいい」
私の手許は明るくなったが、確率の、まったくない一高受験に、気力の湧いてくる筈もなかった。トランスは、掌にのる大きさであった。スイッチを押すと、小さな赤ランプが点灯した。微かな振動に伴い、鈍い音を発した。その響きは私の耳にへばりつき、日中も離れない。毎夜トランスの振動が始まると、私はきまって息苦しくなった。
投票所は、市電車庫に隣接した仰高東国民学校の焼跡に作られた。簡易校舎の基礎工事が始まっていたが、投票所用に、いくつかのテントが張られていた。受付脇には、託児所が設けられ、モンペ姿の女性たちが乳幼児の面倒をみていた。
リヤカーに乗せられたお婆さんが、名簿照合に手間どる光景もかいま見えた。行列についた母の、前も後ろも、女性であった。掲示板には、鳩山一郎、浅沼稲次郎、野坂参三、山口シズエの文字があった。当時、東京は二区制であり、巣鴨は第一区であった。
テントからでてきた母は、空に向かって、大きく伸びをした。真新しい、矢羽模様のモンペが、ひときわ目立った。私は、やたら気恥ずかしく、思わず身を竦めた。
「パパが小説を書くようになった頃だけど」
「・・・・・・」
「どうして女には選挙権がないのかって、八つ当たりしてね」
みちみち、述懐に鼻声がまざった。
父と鹿児島を出奔、東京で正式に結婚したのが昭和二年。父は日本大学社会学科在学中から、プロレタリア詩を発表していたが、同時に建築技師でもあった。結婚当時は、東京府復興局の技手として、関東大震災後の銀座の街づくりにかかわっている。生活は安定し、詩人の会合などには、ボヘミアンネクタイを結び、必ず母を伴って出席した。その父が次第に小説ひとすじ、それもプロレタリア文学に踏みこんでいったのである。体制にあらがう父の性癖も無視できないが、理不尽な時代が迫っていた当時としては、極めて自然な、文学の潮流でもあった。筆名、平林彪吾。
「文学やるんだったら、日本一の小説家になってくれって、いったんだ」
中学入学式の夜、私の進路が、話題になった。私が曖昧な返事を繰り返しているうちに、じれた母の口から、父とのやりとりが溢れだした。唐突だった。戸惑った私は、母の顔をまじまじと見た。私の前には、口を真一文字に結んだ女が一人、背筋を伸ばして座っていた。父への科白も、どこかの夫婦の挿話に映った。
「いうだけいったら、ふんぎりがついてね」
早速母は、銀座裏を歩き回り、三日後には、カフェの女給になっていた。
もっとも、父が文学に傾斜してからは、中野、大塚、五反田などを転転、喫茶店、ビリヤードを開店しては潰すという生活の繰り返しであった。生計は、疾うに底をついていたから、カフェ勤めは、遅かれ早かれ、ゆきつくしかない選択だったのである。
かって「女子美術学校」を目指しながら、親の反対で断念した母である。父に向けた、時代がかった物言いには私も鼻白んだが、今また、自分を捨てての転身だったのだから、無理もない。しかも、勤めだして半年、気負いとはうらはらに、あっけなく体調を崩し、執筆中の父の傍らで、店にでる時刻ぎりぎりまで寝込む日がふえていった。たとえ、志が一つであったにせよ、二人して不遇をかこつ年月は、思いのほか、長く続いた。
昭和十五年五月、父の一周忌に合わせて、遺作集「月のある庭」が改造社から刊行された。贅沢な箱入りだった。跋文、武田麟太郎、火野葦平。「人民文庫」の主宰者と「土と兵隊」の作者が並んだ。「九州文学」の誼から、火野さんの、尽力あってこその出版だったのである。
非常時下ゆえ、発表時に伏字のあった作品は一篇も収録されなかったが、父にとっては唯一の作品集になった。 わが家の防空壕が完成した時、その一冊を、母は、愛着のある着物と着物の間に挟んで、防空壕の奥にしまった。幸い、壕の中までは火が回らなかった。バラックができ上がった日、助かった着物を丁寧にたたみ直した母は、その上に、位牌と遺作集を載せた。そのまま、形を崩さずに、柳行李に移しかえ、合掌した。
「まして女は男よりも心の世界に住んでいる。そしてこれは、彼女が苦悩の深海に潜って探しあてた寶なのだ」(平林彪吾「月のある庭」)
帰宅するなり、位牌をミカン箱の上に戻すと、母は不意に、両腕を差し上げ、体を回し始めた。
「やったよ、やったよ」
足踏みが加わった。時折り、大きな息を吐く。ほっ、ほっ。差し上げた手を、左右にゆらゆらと振る。吐く息は、少しずつ声になった。ほっ、ほっ、ほっ、ほっ。声はやがて合いの手に変わる。拍子をとる足踏みに、力が入る。筵から舞い上がる埃の中で、私はかすかに噎せていた。母は動きをやめない。私は母を見上げた。四十四歳。華やいで見えた。振り上げた両手は、低い天井に届いていた。ほっ、ほっ、はい、はい、ほっ。
東京の有権者は、当時約二百三万人。これに対し、投票総数、約百三十四万票。うち男性約七十二万票、女性約六十二万票。棄権率は全体で三十四・六%、うち男性三十・八%、女性三十八・七%。
女性の棄権防止を訴え続けた市川房枝さんは、名簿洩れのため投票できなかった。疎開先である南多摩郡川口村の投票所で断られ、念のため戦災に遭った大森まで使いをだしたが、そこでも名前は見当たらなかった。
「よりによって・・・・・」
翌日、母は一言いいかけたきり、一日中、口をきこうとはしなかった。(杜父魚文庫より)
593 昭和二十一年春 松元眞
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