594 林彪事件の朝日新聞 渡部亮次郎

日中間の国交正常化が1972年に成るなど、前の年に予測できた政治記者はいなかった。ガチガチの官僚内閣佐藤栄作政権が既に足掛け8年も続いて国民は飽き飽きしているといのに、後継者は又大蔵省出身の福田赳夫だという。
なるほど、対抗馬として考えられるのは佐藤派の財布・田中角栄が居るが、佐藤によって潰される可能性無きにしもあらず。大平正芳、三木武夫。それに中曽根康弘も出たがっては居るが、半人前だからなぁ。
NHKでは政治部の中に「中国問題研究会」が作られ、米田奎二記者がチーフとなり、どうしたものか私も加えられた。その時、本当は文化大革命のさなか、中国では毛沢東対林彪の大権力闘争が起きていた。国交正常化などまだ考えられなかった。田中の政権獲得を信じていたのは島桂次(のちにNHK会長・故人)だけだった。
1971年秋のことである。何しろ林彪は、1969年の9全大会では党副主席となり、毛沢東の後継者として公式に認定されたのに、1971年10月1日の国慶節パレードが突然中止され、人民日報の紙上にも林彪の名が現れなくなった。
「毛沢東重病説」や、「何か重大な政変があったのではないか」との観測が世界中に広まった。この時、朝日の北京特派員の秋岡家栄記者は、パレードが中止になったのは「新しい祝賀形式に変わったのではないか」(1971年9月27日)と、中国共産党内部における政変がなかったかのように報じた。
10月1日に、「モンゴル領内で国籍不明機が墜落した」というモンゴル国営通信社電を各社が一斉に報じ、林彪失脚の噂が世界的に広まる。日本人記者は文化大革命で全員が国外退去となっており、朝日の秋岡記者しか北京にいなかった。
10月は日本の主要各紙とも、北京のルーマニア高官が乾杯で林彪の名前を省略したこと(10月12日 AFP)を伝えたり、林彪重病説(10月9日 ニューヨークタイムズ)を伝えるかと思えば、『中国画報』という雑誌に林彪の写真が掲載されていること(10月27日 ロイター)を伝えたりとブレがあった。
やがて11月頃からは林彪失脚の可能性を伝える報道が主流となる。例えば産経新聞は11月2日付け外報トップで、「ナゾ深める”林彪氏失脚”の原因」という記事を掲載している。
しかし朝日新聞は、「その飛行機には中華人民共和国の要人が搭乗していたのではないかとモスクワでは噂になっている」ことを伝えている(モスクワ特派員電)が、林彪そのものには全く触れていないばかりか、政変の可能性についても全く触れていない。
さらに秋岡記者の書いた、毛沢東と林彪が並ぶ大きな写真が税関に掲げられていたことを根拠に林彪失脚に疑問を投げかける記事(1971年11月25日「流説とは食違い」)や、
「しかし、これだけの事実をもって党首脳の序列に変化があったのではないか、と断定するだけの根拠は薄い」という記事(1971年12月4日「なおナゾ解けぬ中国政変説」)など、「中国共産党内部における政変は無い」と印象付けるような記事が掲載された。
そもそもこれより1年前の1970年10月21日、日本新聞協会主催の研究座談会『あすの新聞』の席上、広岡知男朝日新聞社社長は次のように答えており、中華人民共和国(中国共産党政府)の意向に沿わない記事を書くべきでないことを公言している。
「報道の自由がなくても、あるいは制限されていても、そういう国であればこそ、日本から記者を送るということに意味があるのではないか」(『新聞研究』より)
「私が記者に与えている方針は『・・・こういうことを書けば、国外追放になるということは、おのずから事柄でわかっている。そういう記事はあえて書く必要は無い・・・』こういうふうにいっている」 (同『新聞研究』より)。広岡社長は甲子園球児で、経済記者出身。
この発言が象徴するように、当時の朝日新聞には、親中華人民共和国及び親中国共産党的な報道が多く存在していた。
さらに、広岡知男社長は自ら顔写真つきで1面トップに「中国訪問を終えて」と題した記事を掲載しているが、文化大革命に肯定的とも捉えられる内容である(1970年4月)。
同様の記事は、1971年4月から5月にかけて計6回連載された「中国を訪ねて」というコラムでも見られた。著者は毛沢東とも親しい、著作「中国の赤い星」で知られ、中国共産党シンパとして著名なエドガー・スノーである。
さらに、「百人斬り」や「万人抗」を始めとして、中国共産党政府の意向に沿って無批判に日本軍の残虐振りを印象付ける記事を掲載したと批判される本多勝一のルポ「中国の旅」がある。
多くの朝日新聞批判本がこの点を指摘し、秋岡記者を名指しで批判している。これに対し秋岡記者は、11月中旬に、ある筋から事件の実際を教えられたが、「絶対に口外しない」という約束をさせられたため、いっさい記事を書こうともせず、本社にすらこの情報を送らなかったとも指摘されている。
確かに秋岡記者は、林彪失脚に疑問を投げかける記事を継続して配信しており、朝日新聞は紙面上でこれを中心とした記事作りを行っていたが、同時に外国の通信社などから配信された林彪失脚を匂わせる記事もこの前後に掲載していたのも事実である。ずるいやり方である。
例えば、「林氏ら軍人退場 モスクワ放送 中国“政変”で解説」(11月17日 ラヂオプレス)や、「林副主席の名前は見えず アルバニアに三首脳祝電」(11月28日 ラジオプレス)がある。
中華人民共和国関連の記事は、林彪失脚に懐疑的な記事ばかりでなかったのであり、この点は朝日新聞批判本が指摘していないところであるが、朝日新聞が紙面で外電の林彪失脚を示唆する記事は目立たぬように小さく報じ、自社の秋岡特派員の書いた林彪失脚に疑問を投げかける記事のみ大きく取り上げたことにより、朝日新聞は林彪失脚に懐疑的であったという印象を与えたことは確かである。
年が明けた1972年1月3日、「林氏の肖像画消える」という秋岡記者の書いた記事がようやく朝日新聞に掲載されるが、それが何を意味するかについては記事上、見出し上では一切触れていない。
さらに2月10日付の1面トップには「林氏 失脚後も健在 仏議員団に中国高官談」と題されたAFP電が掲載されている。「これらの一連の記事は『林彪健在』や中国共産党上層部内の平静をあえて大きくアピールして、読者をミスリードしているように見える」と指摘する声が多い。
しかしこれ以降、ようやく朝日新聞の紙面からは林彪の死亡はともかく、失脚を訝しがる記事は消え、2月23日には「中ソ改善を図り失脚 林彪 訪中の米記者報道」(1972年2月22日 時事通信)という記事が掲載される。
一方で他紙を見てみると、読売新聞は「林彪の失脚を確認」、毎日新聞は「林彪は生きている」と、扱いは朝日新聞ほど大きくはないものの前述した2月10日のAFP電を報じている。
1972年7月28日(すでに田中政権発足後)、他社が林彪の死亡を報じた後で、秋岡記者が配信した林彪死亡記事がようやく掲載される。これは、広岡知男朝日新聞社社長が中国共産党政府の意向通りの記事を書くことを公言していることから、朝日新聞社の方針に沿ったものであると考えることができる。
そもそも林彪は1969年の9全大会では党副主席となり、毛沢東の後継者として公式に認定されたが、劉少奇国家主席の失脚以後、空席となっていた国家主席のポスト廃止案に同意せず、野心を疑われることになる。
1970年頃から彼とその一派は、毛沢東の国家主席就任や毛沢東天才論を主張して毛沢東を持ち上げたが、毛沢東に批判されることになる。
さらに林彪らの動きを警戒した毛沢東がその粛清に乗り出したことから、息子で空軍作戦部副部長だった林立果が中心となって権力掌握準備を進めた。
1971年9月、南方視察中の毛沢東が林彪らを批判、これを機に毛沢東暗殺を企てるが失敗し(娘が密告したためとの説がある)逃亡。
1971年9月13日、ソ連へ人民解放軍が所有するイギリス製のホーカー・シドレー トライデント旅客機で逃亡中にモンゴル人民共和国のヘンティー県イデルメグ村付近で墜落死した。
燃料切れとの説と、逃亡を阻止しようとした側近同士が乱闘になり発砲し墜落したとの説と、ソ連が入国拒否した為ミサイルで撃墜された説がある。
なお、逃亡の通報を受けた毛沢東は「好きにさせればよい」と言い、特に撃墜の指令は出さなかったといわれる。死後の1973年に党籍剥奪。
当初林彪は毛沢東暗殺まで考えていなかったが、最終段階になって林立果にクーデター・暗殺計画を打ち明けられた、という説もある。
また、林彪と毛沢東には対外政策での意見の食い違いがあり、これが反目につながったとも言われる。
1969年3月に起きた珍宝島事件を契機に、毛沢東はソ連の脅威をますます実感するようになったが、二正面作戦をとるのは上策ではないとして、「米帝(アメリカ帝国主義)」と罵り敵視していたアメリカに接近を試みる。
一方、林彪は「あくまでも敵はアメリカである」と主張したという。いずれにせよ、林彪事件には今なお謎が多い。
1981年の林彪・四人組裁判では「反革命集団の頭目」とされ、彼が抗日戦争であげた戦功は歴史から抹殺されることになったが、近年、研究者の間では革命期における軍人・林彪の功績を客観的に再評価しようという機運も起きており、北京の革命博物館の展示でも林彪の名が見られるようになった。
また、林彪事件直前に書かれた林彪グループの毛沢東暗殺に関する計画書のなかで、「毛沢東はマルクス主義でも何でもない」「現代の始皇帝である」「中国を人民の相互軋轢によるファシズム独裁国家に変えてしまった」という記述が、文化大革命に厳しい批判的な見方を示す研究者からも注目されている。
1971年9月の墜落事件の後、ソ連のKGBは現地に赴き、モンゴル国内に墜したトライデント旅客機の中から9体の焼死体を回収、その中の1体を林彪と断定した。
国内戦争当時、林彪は頭部の戦傷の治療のため、ソ連の首都のモスクワに赴いたが、その当時のカルテが残存していた。その焼死体の頭蓋骨部分に認められた傷とカルテの記載が一致、これが決め手になったという。
中国人政治学者の厳家祺およびその妻の高皋による『文化大革命十年史』によれば、1950年に林彪が体調不良を訴え朝鮮戦争への出征を拒んだ際、診断した党幹部の御用達医師である傅連!)によって体の主だった器官に疾患はなく、神経系の異常あるいはモルヒネ中毒と診断され、これが毛沢東に報告された。
毛沢東は以前から林彪の中毒を知っており、まもなく、林彪に曹操の詩『亀雖寿』をしたためて送ったとの逸話が載っている。参考:フリー百科『ウィキペディア』(文中敬称略)。2007・05・13

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