「米内さん!」というと盛岡の人は手放しで顔を綻ばせる。
「よねぇ(米内)さんとこのよ、光っあんだっべー、あの子っこよ、えれぇ海軍の軍人だったでねぇすか・・・」・・・東京生まれの私だから、多少の聞き違えがあるかもしれないが、相手の盛岡弁を文字に書くとこうなる。
光政のことを「光っあん」と呼ぶのは、士族仲間や旧制の盛岡中学の同窓生に多かったという。町場の悪たれ童子(わらす)たちは「政っ子」と呼んでいる。ご維新で士族、町人の垣根が低くなったが、数の上では町人の子の方が圧倒的に多い。
町の悪童どもは屋根葺き作業の手伝いをしていた光政少年をみて「まさっこ、屋根ふきゃ、キンタマぶーらぶら」と囃し立てた。明治五年八月、学制発布によって士族の子も平民の子も七歳になれば、机を並べて小学校に通うことになっている。士族の子とて遠慮する必要はない。子供は正直である。
光政少年は明治二十四年、満十一歳で盛岡市立下(しも)の橋高等小学校に入学している。高等小学校は義務制ではなかった。中学へ進学する”予備校”ともいえる。一緒になった原敢二郎(南部藩士族、後の海軍中将)は、高等小学校一年修了で、旧制盛岡中学に合格。光政少年は一年遅れて、高等小学校二年修了で盛岡中学に合格している。
高等小学校時代のエピソード。原敢二郎こと「ハラカン」は貧乏士族の出だったので、幼くして商店に奉公に出された。だから光政少年より三歳年上になる。授業が終わると
「おい、政っこ、今の先生の話を書き取ったか?」
「うん・・・」
「ひと晩、おれに貸してくれ」
「あす、きっと返せよ」
この”政っこ”の言い方は町場の悪たれ童子たちのとは違う。少年時代に三年の年齢違いは大きい。ハラカンは翌朝に必ず書き取り帳を返したが、「おい、ここがミソなんだ。試験に出るぞ。気をつけろ」と念を押した。それが不思議と当たったという。
この二人の仲が面白い。盛岡中学、海軍兵学校、海軍大学校と、ハラカンは政っこの一年先輩となったが、一年遅れた政っこが海軍大将、海相、首相の座まで登りつめたのに対して、ハラカンは海軍中将で退役している。
もっともご当人たちには、どうでもいいことであったらしい。政っこはハラカンの決断力と行動力に敬意を払い、ハラカンは政っこのねばり強さに感服していた。
時は経て、米内光政海軍大佐は超弩級戦艦「陸奥」の艦長になった。陸奥は連合艦隊旗艦として他の三戦艦、四巡洋艦、三駆逐艦とともに中国の秦皇島を訪れている。米内艦長は、これを機会にガンルーム(士官室)の青年士官たちを北京見学に出そうと考えついた。
しかし、秦皇島・山海関・北京は300キロ、中国鉄道は時刻通りに動かないことで定評がある。北京見学で士官たちの帰艦が遅れでもしたら、理由のいかんを問わず「後発航期」の軍刑法で罰せられる。
なんとかしてやりたいという思いから、連合艦隊参謀長だった原敢二郎海軍少将の部屋にいき、お伺いを立てた。同郷の先輩、もとはいえば同級生。政っこが遅れただけのことである。余人を交えずに二人で話をする時は、政っことハラカンで遠慮がない。
だが、ハラカンはとり合わない。隠し事が出来ない米内艦長は、ガンルームで北京見学の構想を喋っていたので、ハラカンの耳にも入っていた。
「何を言うか。このバカもの。そんな特例が認められると思うか!」
だが続きがある。旗艦・陸奥には連合艦隊司令長官の岡田啓介海軍大将も乗っている。ハラカンは岡田長官に
「米内から海軍士官を外交官に育てるには(北京見学が)絶好のチャンスとねばられた」と言って、取りなしている。どこからか岡田長官の耳に入って、米内艦長が窮地に立たないように先手を打ったといえる。岡田は、それを聞いて「米内は外見に似合わず、着想がいいね」と誉めている。岡田の胸に米内艦長の名が刻み込まれた。ハラカンの取りなしは、後にひとつの歴史的役割をもたらしている。
この岡田大将は田中義一内閣、斎藤実内閣で海相となり、その後、首相となって二・二六事件に遭遇した。首相官邸の女中部屋に隠れたが、寝てしまってイビキをかくので、女中たちが困ったという話がある。
阿部信行内閣がつぶれた後継内閣は米内光政に絞られたが、その説得役は岡田元首相。連合艦隊の秦皇島訪問が、二人の関係を結びつけたともいえる。岡田・米内コンビは終戦工作でも活躍している。
601 601 ”政っこ”と”ハラカン”の友情 古沢襄

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