吉田仁さんの「誤植の饗宴」は、出版物が世に出る前に編集者たちがだれでも味わされる“縁の下物語”である。「誤植」は文章が活字化される際の誤りのことで、活字信仰の読者からすれば本来あってはならないもので、見つけられたらたちまち非難の対象になる。
しかし、膨大な活字を相手にする編集者にとっては「千に一つ」「万に一つ」の確率で発生する誤植をゼロにすることは、人間ワザではほとんど不可能なことだけに、世間や執筆者の期待とは裏腹に悩みの深い問題なのである。
吉田さんは「誤植」というふだんは人目につかない話を、古今の文学、新聞などの出版物から誤植にまつわる悲喜こもごものエピソードで紹介している。さすが編集者という自負心からか、誤植をなくすことがいかに難しいかを、深刻な顔で訴えてはいない。しかしいくら注意しても生まれてくる誤植の盛大さを「饗宴」に例え、面白がって立ち向かっているところに、むしろ編集者の意地が感じられた。
私自身も定年後、それまで在籍した北海道新聞社の社史編纂という仕事を与えられ、出版する際に誤植の恐ろしさをつくづく味わされた。
それまで三十数年間にわたる現役の新聞記者時代はもっぱら提稿部門にいて、誤植があれば整理・校閲部門にクレームをつけていればよかった。ところが社史編纂ではもう一人の同僚と二人だけで、自分で原稿を書くばかりか、他人の文章を編集し、おまけに全体の校閲、校正まで責任を負わねばならなくなった。
ご承知のように新聞社は何十人という優秀な校閲スタッフを抱えているが、それは毎日膨大な部数の新聞を朝刊夕刊と休みなく発行し続けるための組織であって、十年に一度程度にしか出ない社史のために日常業務に不可欠な人員を割くわけにはいかない。
新聞社の原稿は迅速さが最優先されるだけに、記者の思い違いとか不正確な記述がかなり多い。このためまず原稿の誤りを直す「校閲」をして、次にゲラ刷りを見て印刷ミスを正す「校正」を行うわけである。
新聞は編集部門の「取材デスク・整理」から製作部門の「校閲・印刷」に流れる過程で二重、三重のチェックを行い、記事の正確さを期している。それでも訂正記事が絶えないのが実情だ。このため原稿の思い違いによる「誤記」、印刷ミスによる「誤植」の発見を専門的に行う校閲部に、どの新聞社も相当の人員を投入しているのである。
そうした製作現場の事情も知らず、原稿さえ書けば自然と立派な活字となって紙面に載るという安易な気持ちから、社史編纂の仕事を引き受けてしまった。後で会社の歴史から各部局の現況にわたる詳細な記述を、「校閲」と「校正」まで全部二人でやらなくてはならないと知って、慌てたが後の祭りである。
そこで「校閲」はゲラ刷りを各担当部局に回して誤りを指摘してもらうようにしたが、いずれも本来の仕事に追われているので十分とはいかない。それに校閲の素人は完成紙面ならともかく、ゲラから誤りを見つけるのはなかなか難しいものである。
一方「校正」は印刷・製本を委託した出版社のスタッフに協力をお願いしたが、あくまで元原稿とゲラとの照合が専門で、社内事情に関知しないため元原稿の誤りを正してもらおうと期待する方が無理である。
こんなわけで毎日、自分と他人が書いた数百ページの原稿をにらみながら、誤植と誤記のゼロを期して神経をすり減らしていたが、出版期日が迫り、祈るような気持ちで印刷のゴーサインを出した。
生まれて初めて自分の手で編纂した刷り上がりの本。まだインクの香りも匂うようなページを1枚1枚めくる時の胸の轟き。が、完成の喜びも束の間!!社史のメーンページともいうべき歴代社長のグラビア写真で私の心臓は一瞬、凍りついてしまった。
四代社長の肖像写真の説明が「中野以佐夫」とあるべきものを、「中野伊佐夫」となっているではないか。メーングラビアだけに事前に何度も念入りにチェックし、会社幹部にも見本刷りを見せていたのに、なんでこんな誤りが…。
後で考えられることは中野社長が一時期、改名して「伊佐夫」と名乗っていたことがあり、会社の資料写真にもそうしたキャプションがついているものがあった。なまじっか私が改名時代を知っていたので、そのキャプションを直さず使用してしまったようだ。
といってもなんの言い訳にもならない。過去に刊行された社史は一貫して「以佐夫」であり、私自身が執筆した社史本文でも、昭和三十年代半ばから始まった全国紙の北海道進出に対抗して会社の近代化を推進した、「以佐夫」社長の陣頭指揮ぶりを詳しく記述している。
本文と写真で会社の指導者の名前が違ってる…これでは社史にならないと判断した私は直ちに出版社に電話して印刷を中断してくれるよう要請した。しかし、その時すでに約三千部の印刷は終了し、全部破棄して刷り直すことなど到底できない相談である。
出版社と対応策を鳩首協議した結果、問題のキャプションを同じ地色、書体で張り替えることにした。キャプション自体が小さな文字なので、ていねいにやれば目立たないからと、出版社側は快く引き受けてくれた。全スタッフがピンセットを手に、徹夜で張り替えてくれたお陰で無事全社に配付できたことは、今でも頭が下がる思いである。
ここで「校閲」さえ完全に行えば「誤植」がなくなるという一般論は、通用しないということを思い知らされた。私のミスは校閲を完全にしても防ぎようがなく、下手に社内事情に通じていたことによる思い違いであって、校閲以前の問題だったからである。
前述したように「校閲」とは原稿の誤りを直すことであって、単なる印刷ミスを直す 「校正」とは異なる。今回の社史の場合、執筆者の思い違いを正すためには本人が校閲するよりも、社内の歴史に通じ、本文と写真との整合性にも目が配れる第三者、校閲のプロフェッショナルが必要である。
しかし、校閲の重要性を認識している人はごく少数で、一般的には編集者の補助的な仕事と思われている。私自身もそうだったが、原稿さえ出せば自然に間違いなく出版物になると思っている人のいかに多いことか。
現在、多くの新聞社では自動校閲システムを導入して、コンピューターの音声読取り機能によって内臓辞書と照合、地名や人名の誤りをチェックしている。これとても元原稿の思い違いまで直すことはできない。
どんなに努力しても誤植が根絶できないのは、それが人間性の深いところに関わっているからである。現代の華やかな出版ブームの陰には、それこそ表に出ない誤植の数知れない饗宴(花盛り)がある。
吉田さんは夏目漱石の研究家・半藤一利の「浜の真砂と本の誤植は尽きない」という言葉を引用して、近代日本文学の古典ともいうべき漱石の「文学論」にも初め十数ページに及ぶ誤植があったことを紹介しているが、その裏で縁の下の苦闘を強いられている編集者への同情をさりげなく言及している。
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