<阿南 惟幾(陸軍大臣) ANAMI Korechika (1887-1945)-徹底抗戦の影で、終戦工作に尽力した陸軍大臣-(2003.4.1作成)(2004.7.28加筆修正)
1887年2月21日東京に生まれる。陸軍大学の入試に3度失敗、4度目にやっと合格し、1918年(大正8年)年11月に卒業。42歳の1929(昭和4年)年から4年間、侍従武官として昭和天皇に仕えた。
ちなみに、この時の侍従長は、半年前に海軍軍令部長であった後に予備役編入となった鈴木貫太郎であり、この人は後に終戦内閣首相となる。
昭和天皇が阿南をとても信頼したと言われるが、その一つの理由としてあげるならば、阿南が「軍人は政治に拘わってはならない(政治ニ拘ラス)」という明治天皇の遺された軍人勅諭に忠実だった点にもあるであろう。ちなみに、昭和天皇は阿南のことを音読みで「アナン」と親しみを込めて呼んだという。
1936(昭和11)年の2.26事件の時に、陸軍幼年学校の校長であった阿南は、全校生徒を集め、「農民の救済を唱え、政治の改革を叫ばんとする者は、まず軍服を脱ぎ、しかる後に行え」と、きわめて厳しい口調で語ったと伝えられている。
この訓示を聞いた生徒の1人は、「校長閣下は侍従武官として天皇のおそば近くに仕えたお方だから、陛下のお心を悩ませた将校たちに対して、こんなに立腹しておられるのだろう」と思ったという。
陸軍内の派閥構想では一貫して中立(無派閥)を通した。陸軍幼年学校長は、「陸軍3大閑職」の1つといわれ、平時ならこれで予備役入りする所であったが、2.26事件後のいわゆる統制派による粛軍(軍の規律を正すこと)断行では、その謹厳実直な中立的姿勢がかわれ粛軍実行機関といわれた兵務局長に1936年に就任する。
1937年(昭和12年)陸軍省人事局長、1938(昭和13)年には第109師団長として中国に出征するが、この時に昭和天皇は阿南を呼んで2人だけで夕食をとった。阿南はいたく感激して、次の和歌を作ったといわれている。
大君の深き恵みに浴(あ)みし身は言い遺すべき片言(かたこと)もなし
1939年10月陸軍次官。畑陸相についで東條陸相の下でも次官を勤めるが、自分の気に入らない石原完爾を予備役に編入させようとした東條と激突をした(温厚で人を叱ることがほとんど無かった阿南にしては珍しいこと)。
以後東条とは不仲となり1941年4月第11軍司令官に事実上の左遷とも言える転任をさせられる。
太平洋戦争開始後は、野戦指揮官として1941年(昭和16年)第11軍司令官、1942年(昭和17年)第2方面軍司令官に就き、1943年(昭和18年)さらにニューギニア方面の戦線に赴いた。
阿南がここで眼にしたには、驚くべき南方戦線での大本営の統帥の混乱ぶりであった。阿南はこれを批判して、「大本営の統帥乱れて麻の如し」と、方面軍の機密作戦日誌にと書き残したのは有名である。
1945年(昭和20)年4月、天皇の命で鈴木貫太郎が戦前最後の首相に就任するが、鈴木は即座に陸軍省に赴いて、阿南の陸相就任をとりつけた。
しかし阿南は、御前会議等の公式会議では軍部が主張する「本土決戦」を強硬に主張し、敗戦処理を進める鈴木や東郷外相と激しく対立する。
しかし、阿南は鈴木首相と息を合わせつつ、公式の会議の場では本土決戦を強硬に主張し、陰では終戦に導くために、議会での内閣打倒の動きに水を差したり、米内海相の辞意をなだめたりと、細やかに手をうっていった。
8月6日広島が原爆攻撃され、9日にはソ連が中立条約を破って満州侵攻を開始した。9日深夜の第1回御前会議では、「天皇の国法上の地位を変更する要求を含んでいない」という了解のもとにポツダム宣言を受諾しようとする東郷外相案と、さらに占領、武装解除、戦犯処置などの条件をつけた阿南陸相らの案が対立して、結論が出なかった。
阿南は、「本土決戦に対しても、それだけの自信がある」「一億枕を並べて斃(たお)れても大義に生くべきである」と、陸軍を代表として強硬論を述べた。
やがて鈴木首相から、意見の対立がある以上、陛下の思し召しをもって会議の決定としたい、との動議がなされ、昭和天皇は初めて意見を述べる機会を得た。
天皇が涙を拭いながら語られるポツダム宣言受諾の聖断のお言葉を、全員がすすり泣きながら聞いていた。
御前会議において御聖断によりポツダム宣言受諾が決定された後、阿南は各課の幹部を全員集めて、御前会議の内容を説明、敗戦の決定に愕然とする陸軍幹部の前で、「私が微力であるため、遂にこのような結果になったことは諸君に対して申しわけなく、深く責任を感じている。しかし御前会議の席で、私が主張すべきことは十分主張した点については、諸君は私を十分信頼してくれていると信ずる。
このうえは、ただ大御心のままに進むほかはない」と訓示、天皇に戦争継続の決意を促すクーデターを企てていた一部幹部に「今日のような国家の危局に際しては、1人の無統制が国を破る因をなす。敢えて反対の行動に出ようとするものは、まず阿南を斬れ」と牽制するのであった。
第2回の御前会議が開かれたのは、8月14日午前11時過ぎからであった。阿南は国体護持の確約が得られなければ戦争継続という立場から、もう1度連合国側に照会すべき、と主張した。
昭和天皇は、阿南らが反対する気持ちはよく分かるが、「自分の身はどうなってもよいから、国民の命を助けたい」と語られた。御聖断は再び下された。
午後、陸軍省に戻った阿南に、若手将校20名ばかりが集まり、「大臣は、国体護持の確証がなければあくまで抗戦と、主張してこられたはず、決心変更の理由をうかがいたい」とつめよった。
阿南は絞り出すような沈痛な声で答えた。「陛下はこの阿南に対して、お前の気持ちはよくわかる。苦しかろうが我慢してくれ、と涙を流して仰せられた。自分としては、もはやこれ以上反対を申し上げることはできない。」。
阿南が天皇との個人的な信頼を通じて語る言葉は、よく大御心を若手将校たちに伝えた。この後、「陸軍はあくまでも聖断に従って行動す」との承詔必謹の方針が明確に打ち出された。その夜、数人の若手将校が近衛師団長を殺害し、一時、宮城を占拠したが、東部方面軍によってすぐに鎮圧された。
「軍を失うも、国を失わず」(阿南が1945年8月14日夜、最後の閣議へ向かう時のつぶやき)
翌15日正午、昭和天皇の玉音放送によって、ポツダム宣言に無条件受諾が伝えられる直前、侍従武官時代に昭和天皇から拝領した純白のワイシャツを身につけ陸相官邸で割腹自決(自刃〔じじん〕)する。
遺書は「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」、辞世は、あの「大君の深き恵みに浴(あ)みし身は言い遺すべき片言(かたこと)もなし」であったという。
自刃の報に接した鈴木貫太郎は「そうか、腹を切ったか。阿南というのはいい男だな」と、また東郷茂徳は「真に国を思ふ誠忠(せいちゅう)の人と評した。
ちなみに、末っ子、阿南惟茂(あなみ・これしげ)は、在瀋陽総領事館の北朝鮮人亡命者連行事件で一躍有名となる。
その時の駐中国大使であったことと、この事件が発生する約4時間前に開いた5月8日午前の大使館内の定例会議で、「不審者が館内に入ろうとしたら追い返せ」「ともかく(亡命者が)来たら追い返せ。
仮に人道的問題になって批判されても面倒に巻き込まれるよりはマシだ。批判されても必ずオレのほうで責任をとる」と指示していたことが5月15日に発覚、大きな波紋を投げかけたためである(同大使は、公使時代の1996年にも大使館の定例会議で北朝鮮の難民、亡命希望者は入館させないよう発言していた)。
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