614 614 亡くなった児の「子守唄」(1) 菊池今朝和

テレビの人気番組の地口を真似ると、家のリフォームは腕のいい職人へ。家庭のリフォームは、司会の「みのもんた」へと、なるらしい。しからば、壊された自然のリフォームは誰がするの、と、なるのだが、ここは昂ぶりを抑え、亡くなった児を偲ぶように、情緒的に、失われた東海市の自然を回顧してみたい。
1963年(昭和43)6月、長野県白馬村より就職の地、名鉄大田川駅に降り立ったときは、いささか失望感にうたれた。それは、目の前に山が見えず、足を浸せるような川も目に映らなかったことが起因であった。しかし、それは是非も得ないことであったかも知れない。
岩手県釜石生まれの私は、1960年より3年間長野県白馬村に住民票があった。職業は今でいうフリーターであった。夏は3000m級の白馬岳の村営の山小屋 (天狗山荘、白馬岳頂上小屋、猿倉小屋)で働き、冬季は八方尾根の国民宿舎や旅館でスキーをしながら働いていた。春と秋は地元で農業を営む山仲間宅に居候をし、農業を手伝っていた。
当時このようなライフスタイルをとる、根からの山好きの男女が結構存在していた(現在でも存在するが)。みずから山乞食や高嶺乞食などと自称し、生活は安定しないが、自然に依存した奔放な生き方をしていた。
四季折々、崇高な日本アルプスに抱かれ、褥(しとね)としていた生活から一転して開発途上の東海市では落差が多かった。しかし、仔細にカメラを持って市内の雑木林、ため池、田畑、などを歩き回ると、魅力ある生き物たちが、「写して」とばかりポーズをとり、招いてくれた。
子供のころアメリカザリガニなど見たこともなかったが、1964年の6月ころおびただしい、ザリガニの行進をみた。0時ころ自転車で今の富木島小学校前の未舗装の道を自転車で通ると、小学校の裏手にあった濁り池(息子が小学生のころザリガニ池と呼んでいた)の方向から、今では上の台公園として整備された山田池に向かい、何百を超え、数えきれないザリガニが行進していた。車に轢かれたものもあったが、憑かれたように障害物を越え、いまのラクビー場のあたりの草地に向かい、さらに山田池の方へと行進は続いていた。
霧の夜に、ハサミを降りたて、ライトを向けると黒い体に目だけが光り、陸続と続くザリガニの行進は異観であった。今、子供たちに親しまれた濁り池無く、湿地部分が魅力だった山田池は、美観面を強調した公園整備で、生態系上単純になった。今一度、あのような光景を観察したいと思うのだが、その日は来るだろうか。
昭和40年代中ごろ、新日鉄の荒尾地区に建てられた、洞ケ山社宅建設のとき、野うさぎが飛び出した、等という噂を聞きながら歩き回っていると、大田川に生息するコサギの群れを知った。宅地化が進んだ木庭の辺り(大田川と渡内川に挟まれた三角地帯、現伏見町五、六、七丁目)だが、当時はアシ原で覆われていた。
コサギは単独で採餌していることが多いが、ここのコサギは群れで採餌いることが多かった。当時(1975年ころ)写した写真で一枚気になるものがある。5羽のコサギが5~6mの円陣を囲んでいるなかに、1羽が中央で足をバタッかせ、水中の餌を驚かせている光景である。
円陣の5羽は鋭く水中を睨んでいる。言い換えれば、これは6羽の狩であつた。時間は記録していなが、その狩は暫く続いた。しかし、その後、同地は開発されたこともあるが、コサギの集団の狩に出会わないことをみると、偶然そのような位置関係に6羽が配置されていたためであろうか。
300mmと800mmのレンズを抱えて木庭のコサギを観察しているうちに、木庭周辺にキジの多いのを知った。ある日、上ノ台から新日鉄まで出勤バスに乗って窓外をみると、木庭周辺だけで7羽のキジを確認したこともあった。その後の休日は、キジとの出会いが楽しみであった。
しかし、そのアシ原等の三角地帯には土木機械が持ち込まれ、見事な水田と畑になってしまつた。野鳥などの営巣には良好なアシ原では、地権者に経済的恩得を生まないし、田畑ならまだ自然度を有するかなどと、半ば諦めつつ得心していると、数年もまたず建設機械が持ち込まれ、住宅街となってしまった。
東海市で、はじめて「いいなー」と思った地が、横須賀高校の裏手にあった与五八池周辺(字名でいうと、清水脇、広脇、膝折、砂原、西原、藤塚、与五八の広大な地域)だった。三方を里山に囲まれ、東海市の奥座敷といった感想をもった。与五八池は二つあり、奥の大きな池を上池、下の田畑に面した小さな池を下池と呼ばれていた。200~300mも離れると幹線道路が四方に走り車が疾駆していた。
高見に登ると海岸沿いに、近代的な工場群の建物が林立し、稼動の象徴として煙突からはえもいわれぬ煙を吐き出していた。与五八池周辺は、日本の現状と乖離 (かいり)せず、当たり前のように、ブレーキの利かない経済優先、利便性第一の世情にさらされていた。だから幹線道路から、徒歩10分による環境の激変は驚きであり喜びだった。この地に入るとホッとした。
カメラを抱え、おにぎりを持って通った。休日だけでは物足りず、仕事帰りも立ち寄った。開発され抹消されるまで繁く通った。水田と雑木林の世界は時間までも、ゆったりと流れているように感じた。もともと、国木田独歩の「山林に自由存す」の詩句に魅せられ、高校の時分から雑木林、いまでいう里山に、情緒的気分で親しんだ。昂じて高山に入り浸るようになったが、与五八池を包み込む世界は、私の原点、故郷の写し絵のようなものだった。
ここでは、四季折々、色々な生き物とめぐり合い、心を豊かにさせていただいた。ある時、池の堤でトンボの写真を撮っていると、けたたましい鳥の声がした。振り返ると、一羽のホオジロがくちばしを大きく開けながら、片方の羽をいびつに広げ、何かを誘導するように跛行(はこう)していた。それは必死の声と動作であつた。
よく見ると、ホオジロに近づくものがあった。ホオジロの懸命さとは違い、妙に落ち着いた目をしたシマヘビだった。シマヘビが近づくと、なお、いっそうホオジロは千鳥足で片方の羽を振るわした。ここで私は気がついた。これは、怪我をした振りをして、子供を逃がすための擬傷行動だと。
擬傷行動は、白馬岳で山小屋番生活をしているとき、ライチョウが何度か行うのを目撃したことがあった。子連れのライチョウが、カメラを持った登山者や、テン、オコジョなどの天敵に追われたとき、大胆にも敵の前に進み出て、怪我をした振りをし、天敵を子供とは違った方向へ誘う行動だった。私はホオジロの親鳥が誘う反対側を探してみた。案の上、ヨチヨチ歩きの、ホオジロのヒナが声をたてず、大きな口を結んでいた。
そうしているうちに、不敵にも、ホオジロの親は、しゃがみこみカメラを抱えている私のほうへ跛行し、羽を震わし私に近づいてきた。ホオジロの親は必死であった。そんなとき、ホオジロの親を追尾してきた、シマヘビと目が合った。シマヘビは、もう少しというところで、追尾を挫折し、忌々しさの目を私に放ち、池の方へ方向を変え、草叢に姿を隠した。そこで、ようやく私は、一枚だけ悲しそうな顔をしたホオジロの子供にカメラ音を放った。(杜父魚文庫より)

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