この地は、山菜を常食する東北人の血が騒ぐ場所でもあった。春には、セリ、ゼンマイ、ワラビ、ノビルなどを摘み、秋には落下したクリの実を採集し、昨夏亡くなった母にどれだけ喜ばれたことであったか、母の思い出とともに、この地を回向し、追善したい。
霧散するまで、週一、二回は上ノ台から、富木島大池、真池、御林、山の脇池のコースを、カメラを携え歩いた。富木島大池は、私にとってトンボ観察上特別な場所であるが、このコース中で一番落ち着くところは御林であった。竹林のなかには300 株ほどのフユノハナワラビが自生していた。ため池にはショウブが群生し、棄田にはヌートリアが住み着き、繁殖をしていた。またこの棄田ではアゲハの仲間の給水が良く見られ、カトリヤンマの生息も多く、側溝のコケに産卵する光景もたびたび観察された。この地ではクロコノマチョウとツマキチョウに心を奪われてしまった。
夏の林中は、クロコノマチョウのお気に入りの場所のようで、木漏れ日に浮かぶ姿は美しかった。陽のあたる草地は、春の女神とも形容されるツマキチョウの活動の場だった。気をもたせるとび方にはゾッコン参いってしまった。ミッバアケビの巨樹があり、クリなどシイ、カシの仲間も繁茂し、御林は花のシーズンともなれば、香りのシンフォニーも楽しめた。
野鳥も多いのが御林の特徴であった。営巣はカラス、キジバト、モズ、キジを確認した。冬ともなればジョウビタキ、ツグミ、カシラダカ、アカハラ、アオジ、コゲラ、メジロ、シジュウカラなどが常連のようだった。雨天イシガメの産卵を観察し、秋の古井戸では、カマドウマの集団越冬を多年目撃した。キジバトの巣を襲う、アオダイショウには心が痛んだ。ヘビの仲間では、他にシマヘビ、マムシ、ジムグリを目撃した。またイタチ(ホンドイタチ)、モグラ(コウベモグラ・死体)の生息も確認した。冬季、棄田の草地で小さなカヤネズミの巣を多数観察したときは感動してしまった。
目撃、観察のほんの一コマを列記したが、まことに御林は生物の種類が多い場所で、訪れるたびに、興奮するような発見があった。
御林の真の魅力は林の中に入ることにあった。盛夏に重いカメラの三点セットを背負い、長時間歩いていると体力の消耗が大きくドロップアウト状態におちいるのだが、そんな時、御林の林中に潜り込めば、蘇生は間違いなかった。
太く豊かな木々の中は、夏の強い日差しを遮り、2~3度気温も低くなり、また林中を風が通り抜けるためか、湿度も抑えられているようだった。何より嬉しいのは木漏れ日の目に優しさであった。これまで偲んできた場所は、明るく開放的な場所ばかりであったが、御林は林の中での観察が多く、また違った魅力があった。
この地では、ブドウ、ミカン園を営むB氏ご夫妻と顔見知りとなり、いろいろご教示を授かり、便宜をはかっていただいた。私も走る姿を二度目撃したが、B氏ご夫妻によると、2~3頭のタヌキが生息しているとの情報や、あの松の木にカラスの巣がある。あの田んぼのあぜ道にキジの巣があるなどと、ミカンをご馳走になりながら教わったこともあった。そのB氏から開発の数年前から、谷を埋め道路を築く構想をうかがった。「なぁに、加木屋の方から、船島小学校の脇を抜ける路を作るだけだ」と仰っていたが、路という線だけの開発だけで済まず、大きな面を伴う開発となってしまった。
「この土地このままにしていても、子供たちは跡を継がないのでどうしょうもない、かといって宅地にはならんし、将来のため路を築くと分担金が大きくてナー」と心情を吐露されることもあった。折々開発業者の車もみたが、遠くからみているとB氏と業者との話し合いは難しそうで、笑顔含みとはいかない厳しい様相だった。B氏は最初谷にあたる棄田部分の埋め立てだけと言い、そのうち「雑木林も半分ぐらい切るかな、上のほうの雑木とブドウとミカン畑は残す」などと後退したが、しまいには何もかにもキャタピラーに踏みつけられてしまい、生き物たちは消えてしまった。
いまは田畑に生まれ変わる、兆しをみせているが、開発のシナリオの手順として数年後には付加価値をプラスし、宅地化に転換されるだろう。これがなくては高い分担金をペイにはでないだろし、農業を継がない子供たちを、親の方に引きつける方法がないのかも知れない。個人の所有に関わる里山、雑木林などの自然保護は奥が深く、多面な困難を内包しているため解決は難しい。
この他の地に、異常にヒバリの生息密度の高かった養父町の耕作地帯。飛び地のように知多市と入り組んだ半ば丘陵状(真崎、野崎、北蔵谷、小僧谷、板ビタ等)の耕作地を歩くと、おびただしいヒバリの繁殖地だった。また、東海市清掃センター前の奥山池から、惣山池、大狭間池にかけてのコースも好きでたびたび通ったが、いずれも偲ぶ対象となってしまった。
明治までは開発といえばたぶんに新田開発を意味した。その意味では開発は善であった。その証左であろうか各地に「開発」という地名と「開発」という苗字いただく人々を残した。それは「かいはつ」とも、また「かいほつ」とも読む。いずれにしても名前の付けられた当時は、自身と誇りを形容したものであったに違いない。
開発という言葉には本来山地などを切り拓いて田畑にする他に、パイロット的な意味合いがある。崩壊地や降雨などにより表土が露出した、悪環境の場所にいち早く適応し根付くマツ、シラカバをパイロット植物と呼ばれるが、それは称賛をともなった言葉で『緑化への偉大なる開拓者植物』との謂いであろうし、NHKの人気番組『プロジェクトX』に登場する、困難に挑戦し乗り越える、稀有の人々も「開発者」であり「パイロット」であった。
田中角栄の「日本列島改造論」の鼓舞を受け、列島が重機の餌食となったとき、列島人のなかに「開発」という言葉に極度のアレルギーが生まれた。いまマスコミの紙面では「調和のある開発」という言葉が使われている。(杜父魚文庫より)
620 620 亡くなった児の「子守唄」(3) 菊池今朝和

コメント