郷里を出てからそろそろ四十年が去ろうとしている。最近の私は人様から出身地を問われると、県名でなく「信州です」と答えてしまう。その方が故郷をより身近に感じられるのもトシのせいだろうか。北信濃とか信濃路という呼び方も好きである。
その北信濃の中心にある長野市へ、三月の初旬に四年ぶりで訪れる機会があった。中条村からのお招きで、老人大学講座の卒業式に講演するという仕事がらみだったが、私の気持ちは弾んでいた。長野市もなつかしいが、以前から北アルプスの映える”おやきの里”に興味を抱いていたからである。
北信濃の山里には雪と伝説がよく似合う。平成七年の早春に、やはり仕事で訪れたのは鬼無里村だった。当時の長野市や周辺は、冬季オリンピックの催場開発にわいていた。私が降り立った長野駅も寺院造りの駅舎が取り壊される寸前だった
青春時代に長野市暮らしたこともあり、古い駅のイメージは私にとって想い出の拠(より)所だった。それが壊されては長野に帰る楽しみも一つ減ることになる。なんとない侘(わび)しさを抱いて訪れた鬼無里村は、豊かな自然に恵まれた文化の香り高い、おだやかな山里だった。
村の歴史や伝説を伝える多くの文化財を拝見し、それを大切に守ってきた地元の努力を知った時、私の胸の侘しさは消えていた。村の現実には山村に共通した過疎化や高齢化の悩みも数多くあるだろうが、講演会場へ集まった人々の表情は明るく、お年寄りも元気だった。あの時の会場の笑い声が今でも甦(よみがえ)る
そんなことを想い出しながら今回長野駅に降りて見たら、新しい駅舎はビルの谷間に埋もれてしまい、見知らぬ町に来たように戸惑った。その駅前から車で三十分。中条村は今朝降ったという雪を薄く山々に頂いて、ひっそりと静まっていた。案内をしてくださった日本レクチャーの社長さんは中条村の出身で、若い頃に長野市に移住されたとか。
「この村は平地が少ないからお米は駄目です。大豆やそば、麦などが主体で、かつては養蚕が盛んでした。山の中腹や天辺に家があって、台風などの風当たりは、凄(すご)いもんですよ」
笑って話されたが、道路から見上げる山肌に、淡雪を被(かぶ)って点在する家々の佇(たたず)まいは、一幅の水墨画のようであった。あいにくの曇り空で、期待したアルプスは望めなかったが、それだけに地元の人々がきびしい自然と折り合って暮らす日常の様子が偲(しの)ばれた。それがまた中条村の歴史と山里の食文化を育(はぐく)んだのだろう。出迎えてくださった公民館長さんのお話が印象深く心に染みた。
「過疎化と高齢化はここも同じですよ。今まで築いてきた村の生活文化を守り育てることが、若い人たちのユーターンに繋がればいいと願っています」
経済不況で都市生活にゆきづまれば、人は自然に故郷や田舎へと足を向ける。家族ぐるみの移住もあれば、自然志向の若者たちが増えつつあることも最近はよく耳にする。田舎暮らしを求める人たちが棲みつくか否かは、地元住民との人間関係が決め手になるだろう。移住者に適切なアドバイスができるのは、自然や人と折り合う知恵をたっぷり身につけた高齢者層が向いているのではあるまいか。”老人力”の活用はそのまま村の活性化に繋がってくるだろう。
私の講演テーマは「老後について」だったので、想いはついそこへ行く。会場に集まっていた皆さんは女性が大半で、明るくなごやかな雰囲気で迎えてくださった。私は多くの先輩作家の見事な老い方を紹介しながら、自分の老後の覚悟などもお話した。
過去を曝しながらの拙ない私のおしゃべりに、皆さんは泣いたり笑ったりして応えてくださった。方言一つにも通り合う温もりがった。
北信濃にまた一カ所、私の心の故郷が増えた。今度”おやきの里”を訪ねる時は、豊かな山菜料理をゆっくり味わいたいものである。=信濃毎日新聞掲載=(杜父魚文庫より)
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