629 629 五葉山二題(1) 菊池今朝和

五葉山は、啄木の詠ったようなありがたき山というより、青春の蹉跌にあえいでいた私にとって、心のよりどころであり、逃げ場でもあった、
しかし、五葉山をみつめる人々の想いがさまざまなように、五葉山にむかう人々の気持ちも多彩であった。
昭和四十七年一月、妻と五葉山に登るべく釜石にむかった。だが、その前に十名近くのおじ、おば達に新妻を紹介する必要があった。
母に言われたとおりに、二番目に清伯父夫妻宅を訪ねた。母は今で言う住吉町で四女として生まれた。
伯父夫婦は、心づくしの準備をして待っていてくれた。
では、これでというときに、伯母(大正十年生)は遠慮がちに戦前、家の都合で名古屋に住んでいたこと、そして名古屋大空襲に遭遇し逃げ惑ったことを語った。その際、一人の女性にたいそうお世話になったらしい。
そして、生きている間に、その方にお礼を述べたいから、捜してくれないかという話をした。
さらに、伯母が名古屋大空襲から釜石に逃げ戻ると、昭和二十年四月五日生まれの私は赤子で、「お前さんが、生まれて一週間目かに戻り、抱いたんだょ、栄養不足で痩せこけてね」
「あのころは食べ物がなくて、道端にヨモギや食べれる草が全然なかった。採ってきた昆布などをまな板がへっこむくらいたたいて食べたものだよ」と。
十三年後の昭和六十年八月十二日、甲子中学校三十六回生の同窓会が、同窓生の営む大畑の魚楽鮨でささやかに開催された。
前回訪問時の伯母の話が気になり、伯父宅を再訪した。話を伺うと、手がかりは、「日比野つゆこさん」という名前と、日比野さんに助けられ、日比野さんの岐阜県内の実家に疎開した先の、字名が「下こび」、それと、岐阜県でも愛知県の寄りということだった。
早速、家に戻ると日比野さん捜しが始まった。手がかりが少なく電話作戦しか手立てはないと考え、図書館の電話帳で日比野姓をピックアップし、とりあえず愛知県よりの、美濃加茂市から電話をはじめた。
「日比野さん宅ですか、そちらにつゆこさんという方お見えでないでしょうか」。六軒目だったろうか「その人なら近所で、電話番号は○○番で・・・」。岐阜県は日比野姓が多いので、長期戦を覚悟していたが、あっけないヒットだった。
早速、お電話を入れたらご本人がでた。伯母のことを話すと、終戦後一度はがきが届いたが、その後音沙汰なしで、どうしているかと案じていたという話だった。
二週間後の十一月十七日、美濃加茂市を訪ねた。つゆこさんは、露子さん(明治四十三年生)であることがわかった。言葉のはしはしから、聡明に生きてこられ、芯の強い女性であることが感じられた。
日比野さんは、当時名古屋市の中川区に住んでみえ、伯母は隣家に暮らしていた。「アメリカの爆撃はすごくてね、パイロットの顔が分かるほど低空で襲ってきて、恐ろしかった」。焼け出された伯母は、日比野さんの厚意にすがり、日比野さんの生家、美濃太田の下古戸(しもこび)に一週間あまり身を寄せ、そこで罹災証明書をえた。
伯母が日比野さん宅に身を移した後も、三月の名古屋大空襲は続いた。夜になると、美濃太田からも名古屋の空は明るくみえ、ドンードンーと空爆の音も聞こえた。
数日後、伯母から弾んだ声が届いた。私が送った写真を手にしているのだろうか「露子さんに間違いない。有難う、有難う、よく見っけてくれた。あの時は空襲にあい、途方にくれているところを、露子さんに助けられて」と言葉が続かなかった。
翌春の三月末、伯父から、伯母を日比野さんに合わせたいから、セットしてくれとの手紙があった。
伯母の対面の日は、四月十一日と決まった。前夜からソワソワ落ち着かない伯父、伯母夫婦であったが、当日のまぶしいくらいの快晴に励まされ、弟の車に私の母も同行し五人で出発した。
手をとりあい、名を呼び合うだけの四十一年ぶりの対面は感動的であった。伯母達は、その夜日比野さん宅に夢をむすんだ。
翌日、私の実家に戻った伯父、伯母は前日の対面を喜んで報告してくれた。伯母の顔は、積年のこだわりを四十一年ぶりに果たせ、清々しい笑顔に満ちていた。
サポートした伯父も満足感で、酌み交わす盃を持つ手も嬉しそうであったが、いっしか、登山一筋の私を思い出したのか、「今朝和、まだ山いっているのか。五葉山は何回登った。そうか、俺の戦友にもしんから山が好きなのがいてな、山はいいぞ、帰ったら正月に五葉山に一緒に登ろうとしょちゅういっていた、ほんとうに山の好きなやつだった」。と、戦友のことを懐かしむように語った。
戦友は佐々木嘉一さんといった。佐々木さんは、伯父と同齢で、釜石製鐵所で伯父は運輸課、佐々木さんは購買部に勤めていたようであった。山で鍛えた佐々木嘉一さんだったが、終戦時シンガポールのブゲンブール島というところで、栄養失調により三十三歳という若さで、奥様と二人の女の子を残し戦病死された。
伯父の回想は続く「嘉一は酒もタバコもやらず、まじめで素直なだけに、生きるための要領も悪く、戦地で毛布を盗まれて困っていた。反面、腹をすかした兵隊にどこからか芋を盗んできて与えていたことも忘れられない。俺は他の島で捕虜になり、昭和二十一年三月、嘉一の遺骨とともに復員し、遺族のもとに白木の箱を届けた。本当にいい友達だった。今でも、帰ったら正月に五葉山に一緒に登ろうの声を思い出す」。
翌年冬、伯父の示唆で、甲子小学校近くに住む御遺族の佐々木マヨさんにお電話を入れた。七十六歳になるというマヨさんは、開口一番に「主人は本当に優しい人でした」と穏やかに語った。お話によると嘉一さんは温厚な性格で、なによりも家族を大事にし、そして趣味の山登りとともに自然を愛された方であった。よその子供にも優しかった嘉一さんは、より二人のお嬢様の行く末を案じ戦地に赴いたのであった。
私も雪の五葉山に二度登ったことがあるが、頂上から眺めた御来光(日の出)は素晴らしかった。光にむせる三陸の海。雪が波打つ頂。今と違い登山装備の貧弱な昭和十年代、この無上の光景を、我が物としていた登山者がいたことは驚きであった。
この稀有な、登山者が居たことを知らせてくれた清伯父も平成十一年に亡くなった。佐々木嘉一さん、泉澤清伯父、お二人のご冥福を心よりお祈りし、そして不戦の誓いを堅めこの項を終わる。

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