632 632 脚気克服の恩人 渡部亮次郎

その人こそ日本最初の医学博士高木兼寛(たかき・かねひろ)宮崎の生んだ偉人である。反対に何万人もの陸軍兵士を見殺しにしたのが文豪森鴎外、陸軍医総監森林太郎である。医者としては藪だったわけだ。
日清戦争の際に陸軍で脚気患者は数万人発症し、病死者は4000人と伝えられている。戦死者は300人で戦死者より脚気で病死した兵士の方が多かった(なお史料により人数は異なる)。
日清戦争とは1894年~95(明治27~28年)の日本と清国(現中国)との間の戦争。日本が平壌・黄海・旅順などで勝利し、95年4月、講和条約を締結。
日露戦争の際には陸軍の脚気患者は約25万人が発症し、病死者は約2万7800人とされる。なお日露戦争の戦死者は約4万7000人。ただし戦死者中にも脚気患者が多数いるものと推定される。(日清戦争時と同様に史料により人数が異なる。なお、高木兼寛の提案を採用して兵員に麦飯を支給していた海軍では軽症患者が少数発生したのみで死者は無しと伝えられている)。
ところで脚気(かっけ、英 beriberi)とは、ビタミンB1欠乏症の1つ。ビタミンB1の欠乏によって心不全と末梢神経障害をきたす疾患である。心不全によって下肢のむくみが、神経障害によって下肢のしびれが起きることから脚気の名で呼ばれる。
心臓機能の低下・不全(衝心(しょうしん))を併発する事から、「脚気衝心」と呼ばれることもある。
少なくとも日露戦争に際し日本軍は農漁村の次三男を徴兵した。彼らは雑穀を常食としていたため結果的に脚気を知らなかったが、軍隊特に陸軍では白米を無料、無制限に食べさせた。しかし副食物については現金を支給した。
このため彼らは現金は親元に送金し、粗末なおかずしか食べなかった。あとから考えればビタミンB1欠乏症となった。但しビタミンはまだ発見されていない。ドイツ帰りの陸軍医総監(陸軍医者の最高責任者)森 林太郎(文豪森?外)は黴菌説を譲らなかった。
脚気は日本が国として形を成し始めた江戸時代に始まった。江戸で将軍をはじめ、富商等裕福な階層から患者が多く(江戸時代末期には一般庶民からも大発生)、「江戸患い」「大阪腫れ」と呼ばれた。それまで喰わなかった白米の所為だと考える者はだれも居なかった。
大正時代以降、ビタミンB1を含まない精米された白米が大衆にも普及し、副食を十分摂らなかったことで非常に多くの患者を出し、結核と並んで2大国民病とまで言われた。
戦後国民の栄養状態の改善に伴い激減したが、近年はジャンクフードの普及によって増えている。砂糖の消化にはビタミンB1が必要とされるため、豆腐や豚肉で補わないと脚気になる。
アルコールも同じ理由により、依存症患者に脚気が多い。アルコール分解の際にビタミンB1が消費される事と、偏食が関与しているわけだが、最近は高齢化が進み、ビタミンB1を含まない高カロリー輸液での発症も問題となっている。
薩摩藩士として日向国諸県郡穆佐郷(現・宮崎市、平成の大合併前の東諸県郡高岡町)に生まれた高木 兼寛(嘉永2年9月15日(1849年10月30日)―大正9年(1920年)4月13日)は医者として英国留学から帰った。
そこで東京海軍病院長、明治15年(1882年)には海軍医務局副長兼学舎長(軍医学校校長)と海軍医療の中枢を歩み、最終的に明治16年(1883年)海軍医務局長、明治18年(1885年)には海軍軍医総監(少将相当官。海軍軍医の最高階級)の役職を歴任した。
この間、軍隊内部で流行していた脚気について、高木は海軍医務局副長就任以来本格的にこの解決に取り組み、原因がある種の栄養素の欠乏のためと考えた。
そこで明治17年(1884年)軍艦筑波に、この前年別の軍艦が行なった遠洋練習航海と食生活以外は全く同じ内容で遠洋練習航海を行なわせ、これら2度の遠洋航海における乗組員の食事の内容と脚気の発生率の関係を検証した。
脚気は細菌が引き起こす感染症であると主張していた森林太郎達と学説上の対立をみたが、高木が主張した白米の中に大麦を混ぜた麦飯食で脚気を鎮めることができ、結果海軍は脚気の撲滅に成功したためた。
明治天皇、皇后陛下も脚気に悩まされていたため、高木を3度も陪食に招き、ご自身、麦飯を食べようとしたが、ドイツ帰りの医者たちは「脚気、黴菌説」に拘って反対。その結果、天皇は医者たちを信用しなくなり、晩年、糖尿病の治療を十分受けなかったといわれている。
海軍で脚気が撲滅された後も、陸軍では森(鴎外)、石黒忠悳等が科学的根拠がないとして麦飯の食用に強硬に反対したため、脚気による犠牲者はなおも現れ続けた。日露戦争では輸送船が大陸に到着する前に船中で死亡する兵士の山だったという。
高木は明治25年(1892年)予備役となり、その後も貴族院議員、大日本医師会会長、東京市教育会会長などの要職に就いた。慈恵医大を創設した。
一方の森は、1922年7月9日、萎縮腎、肺結核のために死去。享年61。「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」という遺言は有名で、遺言により一切の栄誉、称号を排して墓には「森林太郎墓」とのみ刻されている。
明治天皇に厚遇された高木に嫉妬したからではないか。自棄になった。文学ばかりから?外を研究するとこの遺言は不可解だが、脚気の失敗から見るとよく分かるような気がする。
向島弘福寺に埋葬された(現在は、東京都の禅林寺と津和野町の永明寺に改葬されている)。なお、墓碑銘は遺言により中村不折によって筆された。
日露戦争から5年経った1910(明治43)年、鈴木梅太郎(静岡県生まれの農芸化学者)が世界に魁て、米糠から脚気に有効な成分を抽出することに成功、「オリザニン」と命名。なぜかノーベル賞に推薦されなかった。
翌年、ポーランドのフンクもほぼ同様の成分を抽出することに成功「ビタミン」と名づけて今日に至る。真の第一発見者は鈴木なのに日本人の焼餅のために名誉を失った。参考「ウィキペディア」  2007・06・01

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