古い話である。外務大臣当時の園田直が真面目に怒っていた。「とうごう ひらはちろう って誰かな、と海上自衛隊員が話しているんだ。世も末だね」と嘆くのだが、園田さん、それは無理、歴史で教えなくなっているんだもの、とは反論できなかった。
東郷 平八郎(とうごう へいはちろう、弘化4年12月22日(1848年1月27日)―昭和9年(1934年)5月30日)は、日本の武士・薩摩藩士、大日本帝国海軍軍人である。元帥海軍大将従一位大勲位功一級侯爵。
明治期の日本海軍の司令官として、日清・日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を引き上げた。日露戦争における日本海海戦でロシア海軍を破り世界の注目を集め「東洋のネルソン」と賞賛された。
日本海海戦での敵前回頭戦法(丁字戦法)により日本を勝利に導いた世界的な名提督と評価され、日露戦争の英雄として乃木希典と並び称された。 日露戦争の際に連合艦隊を率いて行った急速旋回「東郷ターン」を行った。
ホレーショ・ネルソン、ジョン・ポール・ジョーンズと並ぶ世界3大提督の1人でもあり世界の海軍将校からAdmiral Togoとしてその名を知られている。
これは例によってフリー百科「ウィキペディア」からの引用であって、歴史教育では1936年生まれの私でも受けていない。自分でいろいろ読んで知っていただけである。5月6日は国葬が執り行われた日である。
大国ロシアとの戦争でまさかの勝利を収めてからすでに102年経っている。アメリカに教育まで指図される敗戦からでも62年経っているのである。東京・原宿の東郷神社を見せて、はいと言える人は極少数になった。時の流れ、当然である。
私の父方の祖父は日露戦争にラッパ手として出陣したそうだ。少年時代の私には「ラッパを吹くと胸をやられる」と禁じた。10歳下の弟が中学でブラスバンド入りを父親に禁じられて目を白黒させていた。祖父は既に死んでおり、日露戦争を感得していなかったからである。
日露戦争は、極東における南下政策を押し進めるロシア帝国と、朝鮮半島を国土防衛上の生命線と位置づける新生明治日本との戦いだった。明治37,8年戦役(めいじさんじゅうしちはちねん せんえき)とも言う。英語では”Russo-Japanese War”(ロシアと日本の戦争)と言う。
日本軍はロシアの強力な陸海軍の前に苦しい戦いを強いられたが、旅順攻囲戦、奉天会戦、日本海海戦などの戦いで勝利を重ね、1905年10月に締結されたポーツマス条約により講和した。
講和条約により、日本は朝鮮半島における勢力を確固たるものとして国防上の課題を解決し、また関東州の租借権や南樺太を獲得した。一方ロシアは敗北を期に極東での南下政策を断念し、進出の矛先を再びバルカン半島へ向ける。そしてこれは第1次世界大戦の遠因ともなった。
もともと不凍港を求めていたロシアは、ドイツの宰相ビスマルク主催のベルリン会議により、バルカン半島への南下を断念、進出の矛先を極東に向けることになる。
一方日本は、自国の安全保障のためには、朝鮮半島が敵対勢力の影響下に入る事態を防ぐ必要があった。清朝に対しては日清戦争に勝利し、朝鮮半島への影響力を排除したものの、ロシア、フランス、ドイツの、いわゆる3国干渉によって、下関条約で割譲を受けた遼東半島を返還せざるを得なくなった。
世論においてはロシアとの戦争も辞さずという強硬な意見が強かったが、当時の日本に列強諸国と戦えるだけの力は到底無く、政府内では伊藤博文ら戦争回避派が主流を占め、これを受け入れた。
ところがロシアは、日本が手放した遼東半島を1898年に租借し、旅順に旅順艦隊(第一太平洋艦隊)を配置した。これによりロシアは日本にとって安全保障上の重大な脅威となり、民衆は臥薪嘗胆というスローガンの下に重税に耐えて働き、富国強兵政策が推進されていった。
1900年、ロシアは清朝で発生した義和団事変の混乱収拾を名目に満州へ侵攻、全土を占領下に置いた。ロシアは清朝を脅迫し、満州の植民地化を既定事実化しようとしたが、日英米がこれに抗議、ロシアは撤兵を約束した
ところがロシアは履行期限を過ぎても撤退しよとせず、むしろ駐留軍の増強を図った。ロシアの南下が自国の権益と衝突すると考えたイギリスは危機感を募らせ、1902年、長年守ってきた「栄光ある孤立」を捨て、同盟先として、直接的にロシアの脅威にさらされていた日本を選択した(日英同盟)。
この間日本政府内では、小村寿太郎、桂太郎、山縣有朋ら対露主戦派と、伊藤博文、井上馨ら戦争回避派との論争が続き、民間レベルでも、日露開戦を唱えた戸水寛人ら七博士の意見書(七博士建白事件)や、「万朝報」紙上での幸徳秋水の非戦論といった議論があった。
だが日英同盟によって国論も定まり、積極的な戦争準備を開始した。
1903年8月からの日露交渉において、日本側は朝鮮半島を日本、満州をロシアの支配下に置くという妥協案をロシア側に提案した。
しかし、積極的な主戦論を主張していたロシア海軍や関東州総督のアレクセーエフらは、朝鮮半島にできつつあったロシアの利権を妨害される恐れのある妥協案に興味を示さなかった。
さらにニコライ2世や陸軍大臣クロパトキンも主戦論に同調して、朝鮮半島に日本軍が入るのは脅威であると考えるようになった。
首相ウィッテの戦争回避論は退けられ、日本側への返答として朝鮮半島の北緯39度以北をロシアの、それより以南を日本の支配下に置くという提案を行った。
日本側では、朝鮮半島にロシア側の利権がどういう形であれ入ってくるのは自国の防衛上不利と考え、シベリア鉄道が複線化される前の対露開戦へと国論がまとまった。
1904年2月6日、日本の外務大臣小村寿太郎は当時のロシア公使ローゼンを外務省へ呼び、国交断絶を言い渡した。
ロシア側にとって、この通告がいかに突然であったかを知るには、ローゼン公使の対応を見てもわかるが、ローゼン自身もこれだけ日本に対して傲慢で挑発的な外交を展開しつつも、戦争が起きるとは想像していなかったらしく、この国交断絶通告を受け取った際、「この通告が戦争を意味するものか」と小村寿太郎に聞いた。
ニコライ2世も「わがロシア帝国と日本との戦争は有り得ない。なぜなら朕がそれを欲しないから。」と放言し、日本は如何なる屈辱を受けてもロシアの前にひれ伏すだろうと考えていたという。
これに対し、小村寿太郎は「この行為は戦争を意味するものではない」と返答。この返答は、国際法上の解釈から言えば違法と言えるものではないが、この状態ではどの外交ルートもあるわけではなく、実質的には戦争開始の通告である。
かくしてニコライ2世は、1904年2月10日、アレクセーエフに対し日本との戦闘行為を容認。戦争を決断した。
戦争の決着をつけたのは海戦であった。バルト海沿岸を本拠地とするロシアのバルチック艦隊(第2・第3太平洋艦隊)は、旅順(旅順陥落の後はウラジオストク)へ向けて地球を半周する航海を続けてきた。
5月27日―28日の日本海海戦において、連合艦隊はバルチック艦隊に完勝した。この結果、日本側の制海権が確定した。
1904年2月10日からの日露戦争では作戦全般を指揮したのが東郷中将だった。彼はあまり有名な将軍ではなかったが海軍大臣が東郷を連合艦隊司令長官にするといってきたので明治天皇は「なぜか」と問うた。「東郷は運の良い男で御座います」。それで決まったのだった。
東郷は旗艦三笠に座乗してロシア東洋艦隊(ロシア第一太平洋艦隊)の基地である旅順港の攻撃、旅順港閉塞作戦や黄海海戦、1905年5月27日には、回航してきたロジェストヴェンスキー提督(当時は中将)率いるロシアのバルチック艦隊(ロシア第2・第3太平洋艦隊 旗艦は戦艦クニャージ・スォーロフ)を迎撃し、日本海海戦(ツシマ海戦)で勝利を納め(いわゆる丁字戦法「トウゴウ・ターン」を使った)、海軍大将に昇進する。
ロシアでは、相次ぐ敗北と、それを含めた帝政に対する民衆の不満が増大し、1905年1月9日には血の日曜日事件が発生していた。
日本軍の明石元二郎大佐による革命運動への支援工作がこれに拍車をかけた。日本も、当時の乏しい国力を戦争で使い果たしていた。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年10月に締結されたポーツマス条約により講和した。
日本は19か月の戦争期間中に戦費17億円を投入した。戦費のほとんどは戦時国債によって調達された。当時の日本軍の常備兵力20万人に対して、総動員兵力は109万人に達した。
戦死傷者は38万人、うち死亡者8万7,983人に及んだ。さらに、白米を主食としていた陸軍の野戦糧食の不備により、脚気患者が25万人、病死者は2万7,800人に上った。
ロシア帝国の南進を抑えることに成功し、加えて戦後に日露協約が成立したことで、相互の勢力圏を確定することができた。こうして日本は朝鮮半島の権益を確保できた上、新たに東清鉄道の一部である南満州鉄道の獲得など満洲(中国東北部)における権益を得ることとなった。
またロシアに勝利したことは、列強諸国の日本に対する評価を高め、明治維新以来の課題であった不平等条約改正の達成に大きく寄与した。
ポーツマス条約の内容は、賠償金を取れないなど、多くの国民にとって予想外に厳しい内容だったため、日比谷焼討事件をはじめとして各地で暴動が起こり、戒厳令が敷かれるに至った。
これは、ロシア側へいかなる弱みともなることをも秘密にしようとした日本政府の政策により、国民の多くは戦争をしている国力の実情を知らされず、目先の勝利によってロシアが簡単に屈服させられたように錯覚した反動から来ているものである。
一方、この戦争で日本軍は戦争捕虜を人道的に扱った。日本赤十字社もロシア兵戦傷者の救済に尽力した。日本軍は国内各地に捕虜収容所を設置したが、愛媛県の松山にあった施設が著名であったため、ロシア兵側では降伏することを「マツヤマ、マツヤマ」と勘違いしたというエピソードもある。
日露戦争において旅順要塞での戦闘に苦しめられた陸軍は、戦争後、旅順に築かれていた堡塁を模倣した構造物を陸軍習志野錬兵場内に構築し、要塞戦の戦術について研究したといわれている。
日露戦争の後、東郷は1905年から1909年まで海軍軍令部長、東宮御学問所総裁を歴任し、1906年、日露戦争の功により大勲位菊花大綬章と功一級金鵄勲章を受章、1907年には伯爵に叙せられる。
1913年4月には元帥に列せられ、帝の御前での杖の使用を許される。1926年に大勲位菊花章頸飾を受章した。同時期の受章者は昭和天皇と閑院宮載仁親王だけであった。参考:フリー百科「ウィキペディア」2007・06・02
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