北朝鮮の清津から小舟で日本海を越えて脱北してきた四人のことは、別の意味で私にとっては興味ある出来事であった。四人は旧式のエンジン付きの小舟に乗ってきたが、なお燃料は80リットル残していたという。目的地の新潟まで沿岸沿いに南下するつもりだったのだろう。
船内から羅針盤も発見したという。濃霧をついて清津を出港した四人は、暗夜にまぎれて手漕ぎで沖まででてから、手動で紐を引っ張り、エンジンをかけたのではないか。今の時期の日本海は一番波が穏やかだというが、弱い低気圧が通過したこともあって、脱出直後はかなり波が高かったらしい。
とにかく東に向かうしかない。羅針盤はそのためにあった。方向が違えばエンジンをかけて航路修正をしたのだろうが、燃料切れになって漂流することを怖れたと思う。時にはエンジンを切って海流に乗って、東を目指した工夫もあった気がする。
目的地の新潟から外れて、北の青森県深浦港まで流されたのは、このあたりの事が理由ではないかと思う。海流に乗れば、潮の流れで北へ運ばれる。
実は海流のことで調べたことがある。日本海ではないのだが、台湾海峡で中国軍と国府軍の緊張関係が高まった一九六五年、台湾に渡ったことがある。ベトナム戦争で米軍の北爆再開が始まる直前であった。
蒋介石の国府軍が大陸反攻に出て、旧日本軍の支那派遣軍・参謀や部隊長クラスが約三十人も軍事指導に当たるという物騒な話があった。このメンバーには日中戦争で支那派遣軍が一九三八年に実施した広東作戦というバイヤス湾上陸作戦の関係者が加わっているという。
広東作戦は一九三七年に大本営が計画しているが、海軍は香港近くで行うこの作戦は英米両国を刺激するとして反対、いったんは作戦中止となった。しかし、日中戦争の早期解決を焦る大本営は、一九三八年の武漢作戦と平行して、広東作戦の実施に踏み切った。
実行部隊は台湾軍司令官の古荘幹郎中将を軍司令官とする第二十一軍。三個師団で香港の東にあるバイヤス湾と広東南方の虎門に上陸作戦を敢行して、広東を占領している。この時に問題になったのは、潮の流れであった。十月が作戦実行に適当という判断を下している。
上陸作戦の決め手になるのは、潮の流れだという。中国は一九四九年十月に初めて金門、馬祖両島に対する上陸作戦を行っている。これ以降、一九五四年九月、一九五八年七月に上陸作戦が行われたが、いずれも国府軍によって撃退された。広東作戦と合わせて考えると台湾周辺における上陸作戦は十月前後に集中する傾向がみられる。
脱北してきた小舟の話が脱線してしまったが、ついでにもう一つの脱線。北陸に五年間住んだことがあるが、越前(福井)、越中(富山)、越後(新潟)の「越」の起こりは何だろうか、と考えた。京都から遙々越えてくるから「越」かと思ったら違っていた。
「越」は「こし」なのである。越前、越中、越後の呼称は、七世紀の後半頃からみられるが、もとはいえば「越」は「古志」に通じる。古志族は、中国東北から黒龍江流域沿海州に住んでいたツングース族で、日本に渡来して「越の国」という一大文化圏を作ったといわれる。
古代朝鮮史を紐解くと、北朝鮮から満州南部を版図とした高句麗がでてくるが、ツングースの騎馬集団が南下して作った国家といわれている。ツングースの粛慎(しゅくしん)族で、高句麗にきた者を靺鞨(まつかつ)族と呼んでいる。
やがて高句麗が新羅によって滅ぼされると、この靺鞨族の中から日本に亡命する者が出た。最初の亡命先は新潟県・佐渡だったという。この渡来したツングースの足跡は、新潟から山形にかけて、かなり広範囲にみられた。その痕跡は、新発田市の古志王神社、山形県の古志王神社に残っている。
日本書記に阿部比羅夫が「討蝦夷」「征粛慎」の軍をおこした記述がある。朝廷が「征粛慎」の軍をおこしたというのは、「越の国」という一大文化圏が無視できない勢力になったことを示している。研究者によると「古志国は、飛鳥時代の国名で、越国又は高志とも写し、大化の改新時に至って、名称を越国に統一した」という。
海流に流されずに靺鞨族が佐渡島に上陸し、やがて一大文化圏の足跡を残しているのは、同じ亡命であってもスケールが大きいと思わざるを得ない。
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