650 650 「文学と糊口」と樋口一葉 杉山武子

毎年連休が近くなると、私は樋口一葉のことをふと思い出すことがある。なぜなら小説家を目指していた一葉が、書くことに行き詰まり、収入もなく、最も苦しい貧困時代を送っていたのが明治26(1893)年の5月前後だったからだ。気候もいいこの時期に、長い休みも行楽も頼る人もなく、一葉はその日の暮らしをどうするかで苦しんでいた。109年前の今頃、一葉は21歳。私の末娘よりまだ若い。
長兄を亡くし、明治21年、父を後見人としてたったの16歳で相続戸主となった一葉。しかし相続といっても翌年事業失敗の後に父が病没したので、財産も無い。17歳で年老いた母と妹を養う立場に立たされた一葉は、数年後大胆にも小説を書いて暮らしを立てようと、当時の女性としては前代未聞の決心をする。
一葉の文学修業は『東京朝日新聞』の小説記者、半井桃水(なからいとうすい)に弟子入りすることから始まった。ところが和歌の修業をすでに積んでいた一葉の文章は王朝日記風の格調高いものだったらしく、師の桃水は「売るためにはもっと俗調に書かなければならない」と、小説の趣向に重点を置く手ほどきをする。しかし書いても書いても、すぐに収入になるほどうまくはいかなかった。桃水の指導に限界を感じた一葉は、1年余りで師弟関係を断つ。
一葉の収入といえば、書いたものが雑誌に掲載されて貰う少しばかりの原稿料と、二歳下の妹邦子と着物の洗い張りや仕立てをして稼いだお金だけ。家賃を払って親子三人が暮すにはとても足りなかった。貧困との戦いの記録といってもいい一葉の「よもぎふ日記」から明治26(1893)年の部分を少し紹介したい。
3月15日「昨日より、家のうちに金といふもの一銭もなし。母君これを苦るしみて、姉君のもとより二十銭かり来る」(註:姉は結婚して近くに住んでいた)
3月30日「我家貧困日ましにせまりて、今は何方より金かり出すべき道もなし。母君は只せまりにせまりて、我が著作の速かならんことをの給ひ、いでや、いかに力をつくすとも、世に買人なき時はいかゞはせん」
4月19日。知人が亡くなったので弔いに行こうとしたが香花料がない。決断の早い妹が着物の質入を提案する。一葉が渋っていると「姉様は物の決断のうとくして、ぐずぐずさせ給ふこそくちおしけれ」と妹にはとがめられ、母からは「畢竟(ひっきょう)は夏子の活智(いくじ)なくして金を得る道なければぞかし」を責められる。(註:夏子とは一葉の本名)
5月2日「此月も伊せ屋がもとにはしらねば事たらず小袖四つ、羽織二つ、一風呂敷につゝみて、母君と我と持ちゆかんとす」(註:伊せ屋とは質屋の屋号)
5月21日。知人の西村氏から一円借りて、直ちに菊池氏へ返済に行っている。この頃はもう、一つの借金返済のために別の借金をする状態に陥っている。
5月29日。とうとうせっぱつまった一葉は、親友からひと月分の生活費に相当する八円を借りた。
6月21日「著作まだならずして、此月も一銭入金のめあてなし」
6月27日「金策におもむく」
6月29日「我は直に一昨日たのみたる金の成否いかゞを聞きにゆく。出来がたし」「母君などのたゞ嘆きになげきて汝が志よわく、立てたる心なきから、かく成行ぬる事とせめ給ふ」
この日一葉が金策に行った相手は5月末に8円借りた親友だったが、その返済をしないでまた借りに行ったので断られたらしい。母親の愚痴ももっともだったが、この頃の一葉にはただお金の為に書いたり出版社の注文通りに書く事ができない悩みを抱えていて、それをうまく説明できなくて、収入のない不甲斐なさばかりを母に責められている。
実は一葉は前年の秋、雑誌『早稲田文学』に掲載された「文学と糊口(ここう)」という評論を読んで、衝撃を受けていたのだ。この評論の要旨は、近年文を売って口を糊することが容易な世になったが、見識が高すぎても金にはならず、かといって生活の為俗受けするような物を書いても真の文学とは言えない、というものだった。
「我れは営利の為に筆をとるか。さらば何が故にかくまでにおもひをこらす。得る所は文字の数四百をもて三十銭にあたひせんのみ。家は貧苦せまりにせまりて、口に魚肉をくらはず、身に新衣をつけず。老いたる母あり、妹あり。一日一夜やすらかなる暇なけれど。こゝろのほかに文をうることのなげかはしさ。いたづらにかみくだく筆のさやの、哀れ、うしやよの中」(「よもぎふ日記」明治26.2.6)
「文学と糊口」の一文に触発された一葉の悩みは、日記を見るだけでも相当深刻だ。一葉は悩んだすえ、食べるための手段として貧民街で雑貨屋を開店する行動に出る。一葉が早朝の買出しをし、妹が店番に立ち、母はお勝手を受け持った。買出しを終えたあと、一葉は上野の図書館へ通って、一から文学の勉強をし直す。「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」などの作品は、この後に書かれている。
「文学と糊口」とは古くて新しい問題だ。100年以上前の一葉の時代を振り返って、こうして書いている私も、書き手の一人として考えることはいろいろある。物書きを職業とする人がおり、その業界がある以上、書いて何ぼ、売って何ぼの世界は否定できない。だけど、自分の書いたものには責任を持つという大原則は、たとえ文を売っても、売らなくても、今も昔も厳然としてあることに変わりはない。
黄金週間の頃に「文学と糊口」について考えを新たにすることは、文章を書く自分にとっての戒めともなっている。そして私は、もう自分の娘ほどの年齢となってしまった一葉の悩める日記を読み返す度に、「書く」ということに対して新しい気持にさせられ、教えられている。(2002年4月17日 杜父魚文庫より)

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