666 666 セピア色の岳人たち(2) 菊池今朝和

      三
わき道にそれてしまったが、小島六郎氏の提唱のひとつの発露が「二人のアキラ、美枝子の山」に漂っているではないかと、私は感じ、このエッセン、テクニックに惹かれた。
戦後育ちの私にとって、松濤明は伝説の人でしかなかった。「我々ガ死ンデ、シガイハ水ニトケ、ヤガテ海ニ入リ、魚ヲ肥ヤシ、マタ人ノ身ヲ作ル」。彼はこの端書で市井の人から伝説の人に昇華した。
過酷な従軍時に彼は仏教になれ親しんだのだろうか。仏教輪廻にもとづくこの境地は、すでに彼の脳裏をめぐりまわり、落ちどころを探していたように、今回「二人のアキラ、美枝子の山」を読んで感じた。
松濤明、精神と身体かい離して五十六年。往時、足もとや目の先しか追わなかった登山者も、今では足もとのずっと奥の地球の深部を意識し、目の先の遥か先に漂う宇宙に思いをはせ、とがった山を登りながら地球の丸みをどこかで感じている。
生命のまわりをさとす輪廻という言葉は、宗教臭を取り除き、食物連鎖という言葉変わり、さらに我々が営むこの地球を、運命共同体の乗り物という思考が広がる中で、環境保護に根ざした「生命の循環」という言葉がもてはやされ始めている。これは北鎌尾根の生死のギリギリのところで残された、松濤の意志の延長線上につながる思考ではないだろうかなどとの思いも募り、松濤生きていたならば、環境問題に奔走されたのではなどとの願望もます。
                 四
1972年(昭和47)45歳で自裁した奥山章氏の死はセンセイショーナルに報じられた。「沢山の山の写真を広げた上で・・・」の新聞の見出しに驚き、そして興味もいだき、その記事もスクラップした。彼の名は山岳雑誌で見聞きし、彼の作品の映像も見たことがあったが、それ以外のことは知らなかった。
ただ写真好きの私は、どうして彼は山の写真を引きつめた上で死を選んだのか気になった。翌年遺稿集「ザイルを結ぶときが」が刊行されたのでさっそく求めた。山歴以上に、文学青年であったことや、寂しがり屋な性格であったことなどに惹かれたが、その死については判然としなかった。今回、「二人のアキラ、美枝子の山」読んで、ただ病に負けたのだとひとこと感じた。
                五
「二人のアキラ、美枝子の山」を読んで一人だけ言葉を交わした岳人の名があった。2000年3月、谷川岳一ノ倉沢滝沢リッジを登攀中滑落死された、吉尾弘さん(62歳)である。
私は昭和50年代の初めより登山史に興味をいだき、年に一、二回上京しては国会図書館を訪ね、資料を物色していた。定宿は、古い山仲間の法邑君宅だった。山岳会を物色していた法邑君に、知人の西本武志さんが(戦時下の登山界の動向で優れた研究をしている)会長をしていた、練馬山の会を紹介した。
上京は資料の発掘にワクワクもするが、図書館を出た後の、旧知の仲間と居酒屋で一杯飲むことも楽しみである。一1980年12月、この日は運良く、練馬山の会の忘年会であった。酒さえあれば物怖じしない私は、古参会員のような顔をして忘年会に参加した。
松本清張の推理小説で有名になった、江古田地層の江古田の駅近くの食堂の二階で開催された。たまたま隣の席に座した方が吉尾弘さんだった。
吉尾さんの山歴はよく知っていたので、いかつい闘士を想像していたが、細身で静かな話をされる方だった。じつに楽しそうにチビチビとお酒を味わう飲み方で、笑みをたたえ若い岳人の聞き役となっていたことは印象的だった。明るく陽気なお酒なのに常に冷静で、時には箸袋にメモされていた。
吉尾弘さんとは三度ほど宴席をともにしたが箸袋にメモを取るのが癖のようであった。「いいなーと思った相手の話も、酒が冷めると忘れちゃうので書いているのだけど、その箸袋さえ忘れたりしてね」との笑顔も忘れられない。1978年10月、隊長として全国連盟隊を率いネパール・パビール峰を初登頂されたが、その報告集「憧憬の白き女神―1978日本ネパール合同パビール登山隊」が刊行されたのが1980年3月で、同月、吉尾弘さんの「垂直に挑む」(中央公論・文庫版)刊行されており、この時の話題ともなっていた。
収穫を上げ家に帰ると「憧憬と白き女神・・」が送られてきた、内表紙には大きく友情と連帯と書かれサインが添えられてあった。吉尾弘さんらしい温かい識語だった。日付は1980、12、16とあった。
翌年だったか、愛知労山主催で講演会を開催しょうとなった。最初、三度山行をともにしている画家の熊谷榧さんに白羽の矢があたった。なんど電話をしても人前で喋るのは緊張するからいやだという。十数人での座談会ならと気をもませたが、決局断念した。次を探せというので、恐る恐る吉尾弘さんにお電話入れたら、案外簡単に「その日はあいているからいいよ」との快諾を頂いた。
ネームバリーウムのある吉尾弘さんの求心力はすごく超満員の盛況だった。私をはじめ聴衆は、天才と呼ばれ、若くしてビッククライムをされていた、吉尾さんの登攀談を期待していたが、講演内容は徹底して組織論、仲間論、友情論だった。その夜のご苦労さん会で、吉尾さんは江古田のときと同じように、ニコニコと笑みを浮かべながら、いかに安全に楽しく山に登るか、そのためにはきちっとした組織論と仲間意識が必要なことを、力まずたんたんと語った。もちろん箸袋にメモを取りながらである。
                 六
2002年秋、谷川岳に登るつもりで出かけた。あいにくの豪雨で断念した。翌日、近くの水上町藤原で、以前北アのガイドブックなどを執筆されていた、高橋伸行氏が「葉留日野山荘」を経営していることを思い出し立ち寄ってみた。25年ぶりかの対面であった。80歳に近いお年であったが、お元気そうで今でも元気に山を登られ、家族で山荘を運営されているようであった。温泉を頂き売店によると、うれしことに吉尾さんの遺稿集「垂直の星」(2001年刊)が置かれていた。ずっしりと手ごたえがあり、懐かしい近影も添えられていた。
帰途、車中から望む谷川岳の方向は錦秋であった。「二人のアキラ、美枝子の山」の主役である松濤明、奥山章それに接ぎ穂役の山田美枝子さん。さらに、吉尾弘さんはじめ、書中に登場する熱き青年たちが挑み、もがき、成長を促し、そして命を奪った山が谷川岳であった。その山が熟成しもえていた。厳しい冬を前にもえていた。これも輪廻の一断片だろうか。
谷川岳に登れなかったものの、吉尾弘さんの遺稿集にひとつの満足と縁を感じ、手を合わせた。今回はこの辺で失礼をします。
寒風に 眼球寄せて 酒啜る  白朝

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