私の登山歴はこれまでに二度だけ。学生時代に谷川岳に登って、新聞記者になった直後に大学の後輩たちに誘われて二度目の谷川岳に挑戦した。記者生活の深酒とタバコで身体が生っていて、二度目は頂上をきわめることが出来なかった。女子学生から「先輩!しっかりなさって・・・」と叱咤されたが、息切れがして途中でダウン。
しかし私は山師の末裔である。代々が東北の農家だったが、祖父の代に鉱山の経営者になった。祖父の弟は、やはり山師。日本鉱業に入って朝鮮や満州の鉱山所長になったが、敗戦で命からがら引き揚げてきている。
祖父は大金を持って山越えの途中、村のならず者に襲われて殺された。三十二歳の時だったという。犯人は分からずじまい。
父の古沢元は山師の仕事を憎んだ。その気持ちを小説「少年」に書いた。
<亡父も、計られたとは云え、敵方の者に酒をすすめられ、正体もなくなるほど意地汚くならなかったら、よしんば不意に襲われ、川につき落とされたからと云っても、すぐ心臓麻痺で頓死するような愚劣な死に方はしなかったであろう。
荒い鉱山(やま)稼ぎの中に生活するほどの者は、喧嘩や闇討ちには常に油断のない心構えがある。結局酒がいけなかったのだ。
父は変死体となって、国境の谷間に発見されたが、その下手人はあがらなかった。こちらでは、はっきりとその下手人は判っていたが、泥酔して道に迷い、谷川に誤って転落したと検証されても、どうにもならないほど身体には打ち傷ひとつ負っていなかった。もちろん警察権も不備であった。>
明治から大正年代にかけて、荒っぽい山師の世界では、この手の話はいくらでもある。一攫千金の世界だから、食うか食われるかの争いごとが絶えない。それにしても一人で山越えするのは油断があった。
祖父の惨事は、父や私の酒の飲み方にも影響を与えている。私は一升酒を飲んでも酔わない。顔が青白くなるが、飲むほどに意識が冴えてくる。あまり楽しい酒ではない。だが記者稼業には、こういう酒の飲み方が役に立っている。
大学時代に東京・渋谷にほど近い大橋というところで下宿生活を送ったことがある。そこで生涯の友となった渡辺幸雄氏と会った。副総理になった渡辺美智雄氏の従弟。栃木県の山林地主の長男で、私と同様に大酒飲みであった。
いつしか二人は”山師の義兄弟”になった。祖父の悲惨な事件を語ったことがある。「われわれには大金がないから、殺される心配はない」と言ったら「殺す側になるかもしれないな」と不気味なことをいう。
幸雄氏は大学をでて、なけなしの金をはたいて、大きな山の中腹の小さな土地を買った。その山に福島の小針とかいう政商がスキー場を計画しているという情報を嗅ぎつけて手を打った。小針の手の者が、半分脅しをかけて土地を売るように脅しをかけてきたが、頑として応じない。
「殺されるかもしれないな」と言って幸雄氏はニヤリと笑う。「殺したら土地は手に入らないさ」と山師の義兄弟は計算し合う。この勝負で幸雄氏は勝った。小針は河野一郎の支援者で、ミッチーは河野派。ミッチーも山師の幸雄氏には手を焼いたらしい。
幸雄氏は結局は応分の値段で土地を手放したが、その金で父親から譲られた温泉の権利を使って、山の頂上から温泉を引き込み、温泉付き別荘を造成して大儲けしている。学生時代にはスッカンピンだった幸雄氏は、一代で北関東一の温泉開発業者になった。
その幸雄氏も六十七歳でガンで亡くなって三年が経つ。山師の義兄弟の片割れは、まだヨタヨタしながら生きているが、疾風のごことく駆け抜けた幸雄氏のことは忘れることができない。
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