797 野坂参三の不思議 渡部亮次郎

2007年7月18日、98歳で死んだ宮本顕治が書記長となった1958年。議長として君臨した人の名は野坂参三(のさか さんぞう)。ところがスパイだったことがわかって100歳のときに除名された。元々何のための入党と悲惨な半生を過ごしたのか。不思議な人だった。
とにかく、1992年100歳のとき、『週刊文春』9-11月の連載が基となり、ソ連のスパイだったとして日本共産党名誉議長を解任され、その後除名処分になった。名誉議長解任時は高齢であることを配慮して党からの年金支給が続けられたが、除名処分に伴い打ち切られた。
これはソ連崩壊後、公文書が公開され、野坂が戦中に米国からソ連共産党のディミトロフに送った手紙が明らかになったことによる。
野坂はソ連にいた日本人同志の山本懸蔵(1895―1939年)ら数名を内務人民委員部NKVDに密告し、山本はスターリンの大粛清の犠牲となったのである。
除名の際には党の査問にも反論することなく従ったといい、この件について公に語ることなく亡くなった。この発覚以前からかつての同志袴田里見らからも野坂をスパイと疑う声があったほか、ソ連と米国との二重スパイ説もある。しかし真相は永久に不明のままとなった。
山口県萩市の商家に生まれる。3月30日生まれだったため名付けられた。9歳で母の実家である野坂家の養子となり、野坂姓となる。幣原喜重郎内閣書記官長となった内務官僚次田大三郎は義兄、龍夫人の姉婿。
慶應義塾在学中に友愛会に入り労働運動に参加する。卒業後、常任書記となる。1919年友愛会の派遣で英国に渡り、イギリス共産党に参加。
帰国後、日本共産党に参加。日本労働総同盟の産業労働調査所主事となり、慶應の後輩野呂栄太郎に影響を与える。三・一五事件で検挙されたが、「目の病気」を理由に釈放された。
この釈放から1931年に妻野坂龍とともに秘かにソ連に入国するまでの経緯には謎が多い。外国人向け政治学校クートヴェで秘密訓練を受け、その後米国にも入国、アメリカ共産党とも関係する。
また、1940年、中国・延安で中国共産党に合流する。同年10月に日本工農学校を組織したり、1944年2月日本人民解放連盟を結成し、日本人捕虜に再教育を行い、日本帝国主義打倒を目指す。
第2次世界大戦終了後の1946年1月12日に帰国し、26日に日比谷公園で参加者3万人による帰国歓迎大会が開催される。大会委員長山川均、司会荒畑寒村のほか日本社会党委員長片山哲の登壇、尾崎行雄のメッセージなど、党派を超えて集まり、民主戦線樹立を目標とすることが宣言された。
この大会のために『英雄還る』という曲が作られ、声楽家・四家文子が壇上で熱唱した。
先立つ14日に「愛される共産党」というキャッチフレーズや、信仰対象としての皇室を容認した中央委員会との共同声明を発表した。府中刑務所から解放されていた徳田球一らと日本共産党の再建を果たす。
1946年4月10日の戦後初の第22回衆議院議員総選挙で東京1区から当選。新憲法制定の審議では、自衛権保持の観点から政府の草案に反対したことは知られるが、一方で「主権在民」を書き込ませた功績として評価されている。
ソ連のシベリア抑留の帰国者に関する手紙で、ソ連のシベリア抑留の肯定、延長を求める文面があり、それを基に国会で大々的に追及されたこともあった。
1950年に日本共産党がコミンフォルムから平和革命路線を批判され内部分裂した際には、徳田らとともに所感派の指導者となり、宮本顕治らの国際派と対立。
さらにGHQからレッドパージを受け、地下活動、中国に亡命して武装闘争路線を採った。1955年に帰国して国際派と和解し、六全協で武装闘争路線を否定して第一書記に就任。事実上は宮本の軍門に下ったのでは無いか。だから宮本は以後、野坂を疑わなくなった。
1958年に最高位の議長となり、宮本顕治が書記長となった。1982年7月の第16回大会で退任し、以後名誉議長。1956年に東京選挙区から参議院議員に当選、1977年まで4期(うち1期は3年議員)にわたって務めた。
ソ連崩壊後、公文書が公開されてしまたっため屈辱的な晩年となったが、奇怪としかいえない生涯をなぜ送ったのか、遂に明らかにしないまま100歳で死んだ。
晩年には、自叙伝『風雪のあゆみ』を完成させ、黒柳徹子との親交から「徹子の部屋」にも出演したり、NHK教育テレビジョンで特集が組まれたことがある。しかし除名により表舞台に2度と出ることはなく、まもなく死去した。
「徹子の部屋」では「革命運動のために子供を作らなかったが、今では後悔している」と述べていた。 ただし、のちに養女・米子をとっている。
夫人の龍(りょう)も女性革命家であり、ソ連では逮捕・釈放を経験した。波乱の生涯を1971年閉じている。 スパイと暴かれる前で、せめて、良かった。
野坂は実に不思議な生涯を送った人だが、これを見破れなかった日本共産党も屈辱だった。出典:「ウィキペディア」2007・07・19

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