802 負けるが勝ち 渡部亮次郎

伊藤正氏の畢生の力作「トウ小平秘録」の第3部「文化大革命」が2007年7月22日、遂に終わった。第4部はどのようなタイトルで何時始まるのだろうか。
伊藤正は言うまでも無く産経新聞中国総局長として北京に滞在中。中国の専門家であり、はじめは共同通信社の駐在記者だったが、2000年産経に転じて12月に総局長となった。経歴からしても中国ウォッチャーの第一人者である。
産経にはやはり共同通信社から迎えた黒田勝弘ソウル支局長と毎日新聞社から迎えたワシントン駐在の古森義久記者がそれぞれ居て、他紙では読めない、底の深い分析記事で、それこそ紙価を高からしめている。
その中で北京の伊藤は早くから「トウ小平秘録」の準備に取り掛かっていたらしく、少なくとも公刊された書物のすべてを読み込んでいるようだ。
流石に面と向かってのインタビューに応じた人がいたか、いなかったか。相手の安全を考えれば、今の中国特派員としては、それすら明らかにはできない。当局の逆鱗に触れたら直ちに国外退去となり、二度と再び中国の地は踏めないのが現状だからである。
事情を知らぬ人は「日本の中国報道は生ぬるい」と批判するが、あそこは民主主義国家ではない。言論の自由はもちろん無く、三権も分立していない共産党楽園国家。取材の自由なんか絶対無い。
そうした中で伊藤は「トウ小平秘録」の連載を2007年2月14日から、開始。私は朝になるのが待ち遠しかった。誰も書かない、否書きえなかった中国最大の実力者の実像を知りたかったからである。
トウは生涯に失脚三度、復活三度を経験した、世界の政治家としても稀有な存在だった。しかし、失脚させられても帝王毛沢東に徹底的に怒られてはいなかった。周恩来は「不倒翁」だったが、毛への不満は抱えたまま死んだ。
トウが一番酷い目に遭った二度目の失脚の時は「資本主義を目指す実権派」として憎まれ1968年10月、一切の公職から追放された末、翌1969年10月22日には江西省のトラクター工場に「下放」された。
トウと同時に失脚した前国家主席劉少奇は69年暮、河南省開封で党籍を略奪されたまま非業の最期を遂げるが、トウについて毛は「あれはまた使える奴だ」と言って党籍は剥奪しなかった。
晩年の毛は当(まさ)に耄碌(もうろく)して、言動に一貫した筋というものが見えなかった。劉少奇からの実権奪回のため文化大革命(文革)を起こし、夫人となっていた元女優の江青には終いにはいいように振り回された。
それでもトウの党籍剥奪までしなかったことで中国は経済の改革開放と工業、農業、軍備、科学技術の四分野に亘る「四つの現代化」時代に入り、急速に近代国家建設への道を進むことができたのである。
即ち、日本との国交を回復した1972年当時、トウは文革で下半身不随になった長男と夫人を抱えながら、トラクター部品の研磨作業を黙々とこなしていた。
作業員が手さばきの良さを褒めると「昔(留学した)フランスでやっていた。その経験が生きるとはね」と笑っていた。下半身不随の長男に得意のラジオ修理をさせようと募ったが、ラジオを持っている者は周辺、どこにもいなかった。
常に希望を棄てないトウだったが、これで祖国中国が世界から40年は遅れていると観念する。この貧しさの実態を知ったことが、改革開放を決意させる原点だと私は思う。
トウが「下放」されている間に毛の後継者が決った。国防相林彪だった。ところが林は自滅し、毛はトウを呼び返すことを決意する。トウが元々軍人であり、林の後任として適材であると考えたのである。
失脚から六年。1973年4月12日、北京人民大会堂。カンボジアの解放区から亡命先の北京に戻ったシアヌーク殿下の歓迎宴。外務次官補に付き添われて短髪、背の低い中山服の男が現れた。
目ざといキューバ人記者が叫んだ「トンシアオピンだ」トウの二度目の復活。6年ぶりだった。「副首相」。周恩来首相を補佐する十何人の副首相の1人だった。
しかし、その日からトウは江青ら文革派の執拗な攻撃に曝される。しかも頼りとする周恩来が膀胱癌の進行に苦しむし、毛沢東は文革の遂行に拘り、江青に妥協するばかり。
終には自己批判までさせられた。毛沢東に睨まれたら降伏するしかないことをトウは経験上知っていた。周恩来が1976年の1月に死んだ。トウは孤立した。
1976年4月5日夜に起きた第1次天安門事件の責任を押し付けられて、2日後の4月7日の政治局会議で毛の提案により、トウの党内外の一切の職務からの解任(党籍は保留)と華国鋒首相代行の首相及び党第1副主席就任が決った。三度目の失脚だった。
しかし、トウは周恩来を庇ったことで既に人々の心の英雄になっていた。5ヵ月後の9月9日、毛沢東が死んだ。華国鋒は江青ら文革四人組を翌月に逮捕。まもなくトウが華によって復活。だがトウは華を解任し、自分の時代を開く。
あの時、毛に抵抗したら、何も残らなかった。あそこで三度目の失脚をあえて受け入れたればこそ、その後20年に及ぶ「トウ時代」があった。
中国には「禍福は糾(あざな)える縄の如し」という教えはある。しかしトウに関しては「負けるが勝ち」という江戸後期からの日本の諺の方がぴったりだ。(文中敬称略)2007・07・23
註:「負けるが勝ち」その場では勝ちを相手に譲っても、長い目で見れば自分の方が優位になるということ。逆説の技法を用いる諺としてよく知られている。(時田昌瑞「岩波ことわざ辞典」)

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