815 ジョークの効用と難しさ 古沢襄

安倍内閣の九ヶ月は閣僚たちの不用意な失言で散々叩かれた。閣僚たちも最初から問題発言を意図していたわけでない。話を面白くするサービス精神が行き過ぎて脱線している。この手の脱線の大家は亡くなった渡辺美智雄元副総理。
渡辺一族とは家族ぐるみの付き合いがあったので、よく知っているが、庶民的政治家を自負するあまり、分かり安い比喩をしようとして、数々の問題発言をしてしまった。マスコミに叩かれて、頭をかかえる姿を目撃することが再三あったが、いずれも後の祭り。
だが根が好人物であったから批判の嵐が過ぎ去ると、それ以上の”おおごと”にはならなかった。そこで気を許して、また失言をする。赤坂のTBS近くのトンカツ屋で頭をかかえる姿をみて「何と懲りない男なのか」とあきれたものである。ミッチーの従弟・高木幸雄氏とは学生時代からの親友だったので、二人で意見したこともある。
栃木弁丸出しのミッチー節は、都会的センスには欠けるが、高福祉・低負担を求める野党政策論議を無条件で支持するのは「毛針にかかるようなもの」と批判した。「日本人は真面目に借金を返すが、アメリカには黒人やヒスパニックなんかがいて、破産しても明日から金返さなくても良いアッケラカのカーだ。」の発言は、人種差別的であると叩かれている。だが一面の真理をついている。
欧米では政治家がよくジョークを飛ばす。米民主党のヒラリー・クリントンとオバマのやりとりは、鋭い質問をジョークでかわしていて見応えがある。民主主義の歴史が長いからジョークの技術も洗練されている。
日本の政治家は欧米のジョークの真似をする必要はない。上方漫才という文化を持っている。閑があれば上方漫才の軽妙なやりとりをみた方がいい、とミッチーに言ったことがある。笑いをとるなら漫才、だが当時の漫才は今ほど流行っていなかった。
昔の話になるが、古沢元の未発表エッセイに「偶感追想」と一篇があった。一九三四年の作品。
<梅雨の晴れ間のある日、六月十四日。大阪の林熊王から昨月二十五日長女をもうけたとハガキあり。筆跡は長沖一だから林に命ぜられたのかと思う。それにつけても、自分は上京以来の文学的交友関係を想い出す。(中略)
上京してみると、小説がいかに書き難いかがよくわかった。書けそうな小説のみちびきがなかったと言うほうが適当していた。「戦旗」に初めて書いたのは「高知の漁民騒動」の雑文。後に漫才作者として有名になる秋田実こと林熊王らが、この時期に戦旗社に入ってきた。
(本郷時代の林熊王は、長沖一、古沢元と濃密な交友関係を結んでいる。林の部屋で三人は飽くことなき文学論をたたかわせた。古沢元は武田麟太郎の小説に心を惹かれていたが、林と麟太郎は不仲であった)
自分は自分の小説がもう行き詰まったから、誰かにリードしてもらいたいと思っている。武田さんなら頼めばそうしてくれるだろうか、とかなり思い切って林熊王に話した。武田対林の不和は自分もよく承知していたが、自分としてはそれどころではない気持ちであった。
武田さんのところへ行きたいと自分が言った時の林の渋い顔は、よく覚えている。
それでも林熊王は
「行ったらいいじゃないか。武田のほかにいい作家なんていないから、お前なんか行ったほうがいい」>
このやりとりは、今読んでみても興味深い。林熊王自身もプロレタリア文学運動の限界を覚っていて、新しい模索の道を探している。古沢元が麟太郎のもとに去って間もなく、長沖一と二人で大阪に去った。
大阪でペンネームを秋田実にあらためて上方漫才の脚本書きに活路を見いだした。漫才は二人の漫才師の即興で喋っているのではない。笑いをとるために秋田実は、小さな部屋で徹夜しながら苦吟し、脚本を書き続けた。そして漫才界の大御所といわれるまでになった。
上質の漫才は、古典落語に劣らない風格を備えている。渡辺美智雄氏に上方漫才を見聞きするように勧めたのも、日本には優れたジョークの世界があることを伝えたかったからである。

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