私の主宰するメイルマガジン「頂門の一針」2007年7月26日号(878号)に以下のような大先輩の投書が寄せられた。
<昭和41年4月6日の祝日法改正により、国民の祝日に、「2月11日」が「建国記念の日」として加えられました。以来、40年に亘って祝い続けてきておりますが、その間、政府も、学校も、マスコミも、この「2月11日」がどんな日であるかと言う歴史的な説明を行ったのを見聞きしていないのは、私の不勉強のせいでしょうか。>
このことについて私は「目撃者」なので、改めて記録する必要を感じる。
「建国記念の日」と定められた2月11日は、かつて紀元節という祝日であった。紀元節は、『日本書紀』が伝える神武天皇が即位した日に基づき、紀元の始まりを祝う祝日として、1872年(明治5年)に制定された。だが紀元節は、敗戦に伴い1948年(昭和23年)廃止された。
紀元節復活の動きは、1951年(昭和26年)頃から見られ、1957年(昭和32年)2月13日には、自民党の衆院議員らによる議員立法として、「建国記念日」制定に関する法案が提出された。
しかし、当時野党第一党の日本社会党が、この「建国記念日」の制定を「戦前回帰、保守反動の最たるもの」と非難・反対したため成立しなかった。その後、9回の法案提出と廃案を経る。
その頃、私はNHK政治部記者として衆議院記者クラブに配属された。ここは法案の審議状況を「監視」するポストだ。当然、各委員会の審議状況を毎日監視するほか、衆院議長、副議長、議院運営委員会(議運)の動きを絶えず見守る。
昭和40年暮のある日、副議長に就任したばかりの園田直と雑談していたら「何とか菅原通済に勲一等を取ってやる方法がないものだろうか」といった。
戦前の実業家で、戦後は映画俳優と言っていいぐらいに数々の映画に出演。傍ら売春、麻薬など「三悪追放運動」に挺身。しかし「通人」として聞えていた。その人に勲一等とは・・・
園田は当選9回、特攻生き残りの猛者ながら未入閣。副議長で何か一発手柄を立てての入閣を狙っているはず。ア、あれでは無いか、建国記念日法案、社会党が「戦前回帰、保守反動の最たるもの」と非難・反対しているあれを「解決」すれば目立だった手柄にはなる。佐藤栄作総理はこの法案に拘っている。
翌日、二人っきりになった時「あれじゃないですか、建国法案。あれを粋人菅原がらみで処理すれば勲一等にはなるでしょう」。園田がキッとなった。図星だったのだ。
「2月11日を菅原委員会に答申させて決するというハラじゃないですか」と引っ掛けたら「ああたはワシのハラを何時見たとですか」と天草訛丸出しになった。
社会党は佐々木更三委員長はコチコチの左派だが、書記長山本幸一、国対委員長石橋正嗣はそう固くない。やがて山本や石橋が人目をしのんで、副議長室に籠もり園田と密談を繰り返している事を確認。
他社は全く気付いていない。議長を他社は追っているが、本件は議長棚上げで進行しているのだ。
結局、名称に「の」を挿入した「建国記念の日」とすることで、“建国されたという事象そのものを記念する日”であるとも解釈できるように修正し、社会党も妥協。1966年(昭和41年)6月25日、「建国記念の日」を定める祝日法改正案は成立した。
しかし同改正法では、「2月11日=元紀元節」は入っていなかった。「建国記念の日 政令で定める日 建国をしのび、国を愛する心を養う。」と定めただけ。
同附則3項は「内閣総理大臣は、改正後の第二条に規定する建国記念の日となる日を定める政令の制定の立案をしようとするときは、建国記念日審議会に諮問し、その答申を尊重してしなければならない。」と定めていた。
このあたりの「智恵」は「紀元節復活には反対だが「2月11日には反対したくない」知恵者石橋の知恵だったと今は思っている。
建国記念日審議会は、学識経験者等からなり、総理府に設置された。約半年の審議を経た。建国記念日審議会の依頼により内閣総理大臣官房広報室が世論調査を実施 。
40年年9月29日から10月6日まで全国の20歳以上の男女1万人を対象(有効回収票8700)、社団法人中央調査社の調査員による面接聴取。
同年11月4日の第6回会議に報告
①2月11日(もとの紀元節の日)47.4%(4124)
②いつでもよい12.1%(1053)
③5月3日(憲法記念日)10.4%(909)
④4わからない7.5%(651)
⑤4月3日(聖徳太子の十七条憲法発布の日)6.1%(529)
⑥4月28日(講和条約発効の日)5.8%(507)
⑦特定の日ではなく、季節、月などを回答した者(春、秋、4月、9月など)3.1%(271)
⑧質問の趣旨にそわない回答をした者(「建国記念の日を設けることに反対」など)2.1%(186)
⑨8月15日2.1%(183)
⑩その他の日(旧正月、4月1日、11月3日、その他)1.4%(124)
⑪元日1.3%(109)
⑫立春の日0.5%(43)
⑬もとの元始祭の日0.1%(11)
第5回会議は「建国記念の日に関する公聴会」として同年10月24日、仙台、東京、大阪、広島で同時開催(委員2人ずつ参加)
この結果は委員に影響した。
菅原通濟(会長。全回出席。2月11日)
吉村正(会長代理。全回出席。2月11日)
阿部源一(第5回会議のみ欠席。祝日化は望ましくない。強いて挙げるなら1月1日が無難)
大宅壯一(第2回会議のみ出席。最終の第9回会議直前に辞任のため答申に個別意見記載なし)
奥田東(全回出席。立春の日。人間社会でなく国土に重きをおくべき)
桶谷繁雄(第1回会議のみ欠席。2月11日)
榊原仟(全回出席。2月11日)
田邊繁子(第6回会議のみ欠席。2月11日)
舟橋聖一(全回出席。2月11日。政府の行事としないことが条件)
松下正壽(第1・2・6回会議のみ欠席。2月11日)
委員9人中7人の賛成により、「建国記念の日」の日付を「2月11日」とする答申が同年12月9日に提出された。同日、「建国記念の日は、二月十一日とする。」とした「建国記念の日となる日を定める政令」(昭和41年政令第376号)を公布、即日施行した。
これにより副議長園田直は厚生大臣で初入閣、菅原も念願の勲1等を貰った。
しかし「建国記念の日」は国民を大いに沸かした末の「2月11日」ではなかったところに「の」の無力感が漂う。しかも決定的な違いは「世論調査」と「諮問機関」「多数決」で決った建国記念日である。
そこが紀元節派の不満となっているように思う。三笠宮の反対も影響している。(文中敬称略 )2007・07・27
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