826 岩手県の不思議さ 古沢襄

日米戦争の開戦を指導したのは、岩手県にルーツを持つ東条英機元首相だったが、終戦をもたらした蔭の人物は岩手県人の米内光政海軍大将(元首相)。「岩手県人が開戦を指導し、同じ岩手県人が戦争終結に導いた」と言われたものである。
今度の参院選の立役者は民主党の小沢一郎代表と自民党総裁の安倍首相の二人。小沢代表は岩手四区選出の国会議員だが、安倍首相のルーツを辿ると北の王者・安倍一族の末裔とする説がある。参院選の自民大敗は予想されたものだが、私は岩手県が彩なす因縁の不思議さにとらわれいる。
安倍首相の父・晋太郎氏と話をしたことがある。私が岩手県の出身だといったら「安倍家のルーツも岩手県」と応じてきた。山口県と岩手県が、どう結びつくのか、晋太郎氏は「安倍宗任の末裔なんだよ」と言っていた。
それは、そのまま忘れていたが、宮守村の村会議長だった阿部文右衛門さんと四方山話をしていたら「安倍晋太郎は東北の王者だった安倍一族の末裔だ」という。そして、ほどなくして裏付けとなる資料を送っていただいた。石至下史談会の「原姓安倍氏 豊間根家の栞」がそれだ。
そこには「前九年役の敗北」の項に次の記述がある。
安倍宗任、正任は朝廷軍に降り、肥前国松浦(まつら)また伊予国桑村に流罪、宗任は後、宗像郡大島で生涯を閉じ、地元安昌院に眠る。(天仁元年 1108)。七十七歳であったという。
宗任の末裔は今は亡き自由民主党幹事長の要職にあった安倍晋太郎氏で又、子息の晋三氏は父の跡を継ぎて、衆院議員の要職に奔走されている、とあった。平成十一年の記述である。
裏付けをとるために「姓氏家系大辞典」三巻で陸奥の安倍氏を調べてみた。そこには「肥筑の安倍氏」の項目に、鎮西要略に「奥州夷安倍貞任の弟宗任、則任俘となり、宗任は松浦に配され、則任は筑後に配せらる。宗任の子孫松浦党を称す」と載せたり。宗任の配所は小鹿嶋なりと伝ふるも詳かならず、とあった。
さらに「筑前の安倍氏」の項目には、筑前国宗像郡大嶋に安倍宗任の墓と称するものあり。伝えて云う。「宗任伊予国に配流せられ、後本嶋に流され、終に此の地にて死せり。その子三人、長子は松浦に行き、松浦党の祖となり、次男は薩摩に行き、三男此の嶋に留り、嶋三郎季任と云い、その子孫今に此の嶋に残れり」旧志略に見ゆ、とあった。旧志略の方が鎮西要略よりも詳しい。しかしいずれも配流された蝦夷の頭目という扱いになっている。
それが平家物語になるとガラリと変わる。その剣の巻に「宗任は筑紫へ流されたりけるが、子孫繁盛して今にあり。松浦党とはこれなり」とある。平家は西国の水軍と密接な関係があった。松浦党はまさしく水軍で、後に博多湾に来襲した蒙古の軍船と壮絶な戦いを演じて、勇名を轟かせた。
また宗任の墓がある筑前国宗像郡大嶋は、水軍の根拠地となっている。この松浦党は壇ノ浦の海戦で平家方についた。だが、源氏との恩顧も忘れていない。平家物語は「源義家の請によりて、宗任を松浦に下して領地を給う」としている。
安倍貞任は猪突猛進型の武将だったが、宗任は知略に優れた名将といわれた。安倍一族を滅ぼした源頼義・義家親子は、宗任の武略を惜しみ、死一等を減じて朝廷から貰い受けている。そして頼義の領地・伊予国に連れてきた。配流とは名ばかりで、間もなく松浦の領地を与えたという。
さて安倍家が松浦姓を名乗らずに安倍の本姓を名乗ってきたのは何故であろうか。安倍家は山口県大津郡油谷町の名門で、晋太郎の父親は安倍寛、戦前の衆院議員である。晋太郎氏は自らを安倍宗任と末裔といったが、その根拠はいわなかった。
私は宗任の長男が祖となった松浦党の系譜ではなく、水軍の根拠地・大嶋に残った三男の末裔でないかと思っている。それなら安倍の本姓を名乗ってきたことの説明がつく。
安倍晋太郎氏は安倍一族のルーツに大きな関心を持っていたが、安倍首相は実母の洋子さんの家系に関心がある。洋子さんは岸元首相の長女だから、幼い頃から安倍首相は岸元首相の膝に抱かれて育っている。
北の王者・安倍一族の末裔という意識よりも、岸元首相の孫という意識の方が勝る安倍首相の気持ちが分かる気がする。だから参院選をめぐる岩手県人の彩なす人間模様は、私だけの思い入れだけにしておきたい。

コメント

  1. 千田昭彦 より:

    初めまして。私、岩手日日新聞の記者です。大野伴睦先生を思慕し、福田一先生や水田三喜男先生の著作を日本の古本屋でインターネット購入いたしております。往時の大野派とその個性的な構成メンバーのエピソードなどを教えてくただければ幸いです。
    敬具
       千田昭彦

  2. 古沢襄 より:

    大野伴睦のような政治家は、もう出てこないでしょう。私は昭和34年、1959年に初めて大野伴睦をみましたが、当時は69歳。その五年後に亡くなりました。院外団、東京市会議員から国会議員になっていますから普通なら高齢引退、地元では記憶する人もいるでしょうが、中央政界では誰も相手にしない政治家であった筈です。
    それが吉田内閣の党人御三家(大野伴睦、益谷秀次、林譲治)として重きを為したのですから並の政治家ではありません。人情に厚い、スケールの大きい人物でした。読売新聞の渡辺恒雄氏が大野伴睦に傾倒したのが分かる気がします。当時は北海道の羆(ひぐま)・中川一郎が、まだ大野伴睦の秘書時代。自民党記者クラブによく遊びにきています。
    共同通信の先輩である福田一(ピンさん)の知己を得たのもこの頃。政治部長にもなったピンさんが大野伴睦に傾倒するのが、当初は理解できなかった記憶があります。重厚な人柄で衆院議長になったピンさんは「大野伴睦の人柄が分かるには君はまだ若い」とやられました。28歳でしたから、ピンさんの言う通り。
    翌年、1960年夏の岸退陣後の総裁選挙で池田勇人、大野伴睦、石井光次郎、藤山愛一郎が立ちます。ピンさんは大野伴睦に自重を求めています。ご存知のように岸は大野伴睦に「次の政権を譲る」という念書を書いているのですが、ピンさんは岸念書に疑問をもちます。「岸さんは本当にわれわれを応援する気持ちがあるのだろうか」と。私もピンさんから聞いております。
    大野伴睦は「岸が念書を反古にする筈がない」と言います。数日後に東京・弁慶橋の「清水」という料亭で、岸と大野伴睦、ピンさんの三者会談をしたのですが、ピンさんは岸の態度がよそよそしく、大野伴睦の視線を避けるようにして話をするのにますます疑念を深めます。だが大野伴睦は「バカをいえ、岸はオレをやるよ」と一笑に付して、ピンさんの疑念を退けています。ピンさんも、ここまでくれば大野伴睦で池田勇人と一戦を交える覚悟を固めました。悲壮な顔付きのピンさんの表情が忘れられません。
    事実、大野伴睦と池田勇人は互角。岸の応援がなくても石井光次郎と二、三位連合を組めば勝算がありました。ホテルニュージャパンに陣どった大野派でピンさんから大野170,石井72という票読みを教えて貰いました。しかし石井派が切り崩しにあっているという情報が入って、大野伴睦は多数派の自分が下りて、石井光次郎に一本化する二、三位連合の決断を下します。
    ピンさんがホテルニュージャパンで記者会見を開いて、大野伴睦が下りる発表をした後にハラハラと涙をみせた光景が忘れられません。ピンさんは「安保騒動で混乱した世の中をたとえ三ヶ月でも半年でも、自分の力で安定させたい」と大野伴睦が心境を吐露したことを教えてくれました。政権をとりたいという利己的な野心からではない。その心意気に殉じる気持ちになった、と言っていました。隠された秘話です。
    だが石井派は池田側によって参院石井派がカネとポストによって完全に切り崩されてしまいます。この情報が入ると大野伴睦は「わかった」と言って押し黙ったといいます。
    共同通信の社長だった犬養康彦氏(ワンちゃん)の父親が指揮権を発動した犬養健法相だという話はご存知でしょう。大野伴睦は犬養健嫌いで有名でした。白樺派の作家でもあった犬養健とは肌が合わなかったのでしょう。しかし犬養健が悪名高き指揮権発動の法相として指弾され、助けて貰った佐藤幹事長すらよそよそしくなると、大野伴睦は犬養健を大野派の客分に迎えて、親しくなっています。大野伴睦には、そういう人情味が厚いところがあります。野人といわれ、伴睦人気が衰えない由縁です。

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