874 ”戸石崩れ”と勘介、幸隆 古沢襄

NHKの「風林火山」は世にいう”戸石崩れ”を描いたが、井上靖氏の原作とも「甲陽軍鑑」とも違う独自のストーリーを立てた。井上靖原作や「甲陽軍鑑」では山本勘介は戸石城攻めに加わっている。NHKの大河ドラマでは勘介は、越後の上杉謙信に囚われの身になっているので、戸石城攻めには加わっていない。新説である。
もともと山本勘介は実在したか定かでない存在だから、設定は如何様にも立てられる。フィクションの世界だから、私にはNHKの設定の方が斬新で、いずれ武田信玄と雌雄を決する謙信の描写に力点を置いた点からも好感を持った。フィクションの勘介を主人公にしているのだから、NHKの大胆な新説は非難されるものではない。
小林計一郎氏の著作に「真田一族」という本がある。信濃資料を使った力作なのだが、NHKの”戸石崩れ”は、この著作に拠ったような気がする。
武田軍が戸石城攻めにとりかかる時に長窪城の本陣から西南の方角に、黒雲のなかに赤雲がたち、西にたなびくのが見られた。武田軍中にあった信玄側近の駒井高白斎は「長窪の陣所の上、辰巳の方に黒雲の中に赤雲が立ち、、西の雲先なびく」と陣中日記(高白斎記)に記している。「甲陽軍鑑」には、その記載がない。
また大河ドラマでは触れなかったが、武田軍の中を鹿が一頭横切っている。いずれも凶兆とされたものである。高白斎は天変地異を占う才覚があった。「甲陽軍鑑」がこれらの凶兆に触れていないのは、”戸石崩れ”を敗戦と認めていないからであろう。むしろ勘介の奇策によって現れた村上義清の軍勢を退けたとしている。
井上靖原作は「この合戦で武田勢は721人の士卒を失った。対する敵の首級は193.出血は武田方が大きかった。しかし勝鬨(かちぢき)は武田の陣営から起こった」と歯切れが悪い。
小林計一郎氏は「戸石城攻めを信玄に勧めたのは真田幸隆であろう」と推測している。それを裏付ける資料はないのだが、私もこの推測が正しいと思っている。NHKドラマも幸隆説をとっていた。
一年後に幸隆は謀略をもって戸石城を奪っている。”戸石崩れ”の罪ほろぼしだったと思うが、勘介の役割をどう設定するか。史実の幸隆にウエートを置くのか、フィクションの勘介にウエートを置くかによってストーリーが違ってくる。
史実とフィクションを織り交ぜるドラマだから、今から楽しみにしている。歴史小説は史実にとらわれると案外面白味に欠けるきらいがある。史実を忠実に追うのは、歴史家に任せたらいい。作家・田宮虎彦氏はフィクションの歴史小説を得意としている。
信玄は元亀四年に没したが、幸隆も後を追うように天正二年、この戸石城で病没している。享年六十二歳だった。これは史実。

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